■ 折 伏 折伏(しゃくぶく)とは、正法を知らない人や信仰できない人に対して、不幸や苦悩の原因が誤った思想・宗教にあることを教え、日蓮大聖人の仏法こそが真実の幸福を得る道であることを説き示す行為をいいます。一切の人々に即身成仏(そくしんじょうぶつ)という幸福境界をもたらす折伏は、ひいては世を清浄(しょうじょう)にし安穏(あんのん)ならしめ、真の世界平和を築いていく尊い慈悲(じひ)の振る舞いなのです。 摂受と折伏 仏は、弘教する手段として「摂受(しょうじゅ)」と「折伏」を示されました。 摂受とは摂引容受(しょういんようじゅ)の義で、衆生の機根に応じて、徐々に誤りを正して真実の法に導く方法をいいます。これに対して折伏とは、破折屈伏(はしゃくくっぷく)の義で邪義の存在を許さず、ただちに破折し屈伏させて真実の法に導く方法をいいます。大聖人は、 「摂受・折伏時(とき)によるべし」(佐渡御書 新編五七八) 「邪智(じゃち)・謗法の多きときは折伏を前(さき)とす」(開目抄 新編五七五) と仰せられているように、謗法の者が多い末法今日(こんにち)には折伏を用いることを定められているのです。 法体と化儀 折伏には「法体(ほったい)の折伏」と「化儀(けぎ)の折伏」の二義があります。 法体の折伏とは、大聖人が御一代の御化導において、外道・小乗・大乗・法華経迹門(しゃくもん)・文上(もんじょう)本門を破折し、その終窮究竟(しゅうぐくきょう)の法体として三大秘法総在(そうざい)の本門戒壇(かいだん)の大御本尊を建立されたことをいいます。 化儀の折伏とは、法体の折伏により顕された三大秘法の正法正義(しょうぎ)を全世界に流布し、多くの人々に受持させることをいいます。この化儀の折伏に精進(しょうじん)していくことが、本宗僧俗の使命なのです。 折伏の心得 日蓮大聖人は、数々の法難に遭(あ)われながらも折伏弘通の御一生を貫(つらぬ)かれました。それは、人々の謗法の罪障による苦を取り除き、成仏の大利益を与えようとの大慈大悲の御精神によるものでした。 大聖人は種々の御書において、「慈(じ)無くして詐(いつわ)り親しむは、即ち是(これ)彼が怨(あだ)なり。彼がために悪を除くは、即ち是彼が親なり」(涅槃経疏)との文を引かれ、相手の不幸の原因を知りながら、それを指摘しないことは無慈悲にあたると教示されています。真の慈悲とは、たとえ相手から誹謗(ひぼう)中傷されようとも、その誤りを破折し正法を教えていくことであり、折伏の精神の原点もここにあるのです。この折伏の実践にあたって大聖人は、 「日蓮が弟子等は臆病(おくびょう)にては叶ふべからず」(教行証御書 新編一一〇九) と誡(いまし)められ、いかなる相手に対しても臆することなく、勇気をもって妙法を説いていくことの大切さを教えられています。 また、法華経『法師品(ほっしほん)第十』に、 「法華経の、乃至(ないし)一句を説かん。当(まさ)に知るべし、是の人は則(すなわ)ち如来の使(つかい)なり。如来の所遣(しょけん)として、如来の事を行ずるなり」(開結三二一) とあるように、折伏は仏の使いとしての尊い行為です。したがって、これを行ずる人は仏と同じ振る舞いをなす人であり、その功徳も広大であるといえます。『安楽行品第一四』には、 「若(も)し後(のち)の悪世の中に 是の第一の法を説かば この人大利(だいり)を得ん」(開結四〇六) と説かれています。 海外諸国への布教 大聖人は、「末法に摂受・折伏あるべし。所謂(いわゆる)、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし」(開目抄 新編五六七)と仰せになり、日寛上人はこれについて「末法は折伏の時なりと雖(いえど)も、若し横に余国を尋(たず)ぬれば、豈(あに)悪国無からんや。其の悪国に於ては摂受を前(さき)と為(な)すべし。然(しか)るに日本国の当世は破法の国なる事分明(ふんみょう)なり。故に折伏を前と為すべきなり」(開目抄文段 文段一八四)と釈されています。 すなわち、末法は折伏のときですが、正法(しょうぼう)がいまだ弘宣(ぐせん)されていない諸国においては、折伏のうえの摂受としてのあり方も考慮(こうりょ)すべきことと教示されています。 |