御 供 養
■ 御供養

 供養
(くよう)とは「供給奉養(くきゅうぶよう)」の義で、仏・法・僧の三宝を崇敬し、信仰の志を三宝に奉ることをいいます。仏典には二種供養・三業(さんごう)供養・事理(じり)供養をはじめ、多種の供養が説かれていますが、大別すれば、「法(ほう)供養」と「財(ざい)供養」に分けることができます。法供養とは、仏の所説に従って正法を弘め、人々を教化・利益することであり、現代においては、さまざまな障害のなかで折伏弘教に励むことがこれにあたります。財供養とは、食物や衣類・香華(こうげ)・資材などを供養することであり、これらによって仏法の法灯(ほうとう)が護られ、ひいては衆生を利益していくという意義があります。
 御本尊の讃文
(さんもん)には、「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と認(したた)められているように、末法の正しい三宝に供養をするならば、仏がそなえる十種の徳よりも大きな功徳を積むことができると示されています。
 大聖人は、
「たゞ一つきて候
(そうろう)衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うへたるよに、これはなしては、けうの命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ」(白米一俵御書 新編一五四四)
と仰せられ、真心を込めた財物の御供養は、命を仏に捧
(ささ)げるほどの尊い行為であると教示されています。
 伊豆や佐渡配流
(はいる)のおりには、船守(ふなもり)弥三郎や阿仏房たちが身の危険を顧(かえり)みず食物などを大聖人に奉り、献身的に給仕(きゅうじ)に励まれました。また、南条時光は幕府の弾圧によって経済的に逼迫(ひっぱく)したなかにありながらも、身延におられる大聖人に対し種々の御供養を尽くされました。このほかにも四条金吾をはじめ多くの信徒たちが、末法の御本仏大聖人に対し真心の御供養を申し上げ、外護(げご)の任をまっとうしてきたのです。
大聖人は、
「度々
(たびたび)の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給ふべし、懈(おこた)ることなかれ」(新池殿御書 新編一四五七)
と仰せられ、仏の広大な恩に報いていくためにも御供養に励むべきことを教えられています。


仏がそなえる十種の徳
@如 来
(にょらい)……根本の真理を体得した覚者。
A応 供
(おうぐ)……供養に応ずる資格のある覚者。
B正遍知
(しょうへんち)……諸法を正しく遍く知る智慧を有する覚者。
C明行足
(みょうぎょうそく)……宿命明などの三明の行を具足する覚者。
D善 逝
(ぜんぜい)……涅槃へ善く逝き至る覚者。
E世間解
(せけんげ)……世間を通達し理解しきった覚者。
F無上士
(むじょうし)……一切衆生の中で最上の覚者。
G調御丈夫
(じょうごじょうぶ)…衆生の心身を調えて善導していく覚者。
H天人師
(てんにんし)……天界・人界の師匠である覚者。
I仏世尊
(ぶっせそん)……智徳円満で世に尊崇される覚者。