竹の子と三身如来
 
 今月は日寛上人の譬喩を記します。
 凡夫は成仏を外に求めるが、三身如来の根元は我等自身にある。譬えば大木になる根本は小きな芽で、この芽が生長してやがて大木となる。また、大竹もその根本はわずかな竹の子であるが、生長して大竹となる。我々も芽や竹の子の如くで、修行の功を積んで大木・大竹のような三身如来となるのである。
 如是相とは形相(ぎょうそう)である。色の白い人もいれば黒い人もいる。痩せた人もいれば肥えた人もいる。これらは如是相の形で、一切形の無いものはない。これがすなわち、応身如来の三十二相八十種好の根本である。
 如是性とは心である。智慧のある人であれ、愚癡の人であれ、また正直の人であれ、不正直の人であれ、心の無い人はいない。この心がすなわち、果上の報身如来の根本である。
 如是体とは身体である。老いたるも若きも、身の無いということはない。我々のこの身がすなわち、果上の法身如来の根本である。
 しかれば、我々凡夫の形と心と身は如来の応身と報身と法身との根本である。ここを宗祖は「我身三身即一の仏」と判じられた。これは竹の子が大竹の、芽が大木の根本となるように、その当体を改めず我々凡夫の形と心と身が応身・報身・法身となるということである。これが即身成仏である。
 よって仏体を外に求めるのは大きな迷いであり、愚痴である。竹の子を除外して直ちに大竹を求めたり、芽を捨てて直ちに大木があるはずがない。しかし、竹の子を直ちに大竹とはいえない。桷(たるき)にも釘竹にもならない。芽を直ちに大木とはいえない。柱にも梁(はり)にもならない。したがって衆生をすぐに三身とはいえない。ただ三身になるべき根本なのである。それはちょうど竹の子・芽がその体を改めず大竹・大木となるようなものである。
 また、それらを大竹・大木とするには、虫に食われぬように、鎌で刈られぬようにして、雨露の恵みがあればやがて大竹・木木になるであろう。もし虫に食われ、鎌で刈れば朽(く)ち失せて大竹にも大木にもならない。だから人は三身如来の根本であるが謗法という虫に食われ、無信の鎌に刈られ、懈怠という日照りにあって雨露の恵みが無ければ三身如来の根元は朽ち失せてしまう。故に謗法の虫を拾い捨て、不信の鎌を抛ち、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と雨露の恵みがあれば、今でこそ一寸、二寸の竹の子・芽のような身であっても、大竹・大木の三身如来と顕れることは掌(たなごころ)を指す如くである。
 所詮、宗祖大聖人の教の如く、少しも添えず、削らず、修行することが肝要である。
(歴代法主全書四巻)
(高矯粛道)