智目行足到清涼池
 
 これは 『玄義』 の文である。
 例えば、この地よりどこかに行こうとしたときに、必ずまず目を開き、行きたい所の道筋を見て、足を踏み出さないと自分の思う所には行けない。いかに目を開いてみても足を踏み出さなければ望む所に行くことができない。
 全くそのように、信心の目をあけて、自己の色心の全体が妙法蓮華経であると解了してから修行の足を踏み出さないと寂光の都に至ることができない。つまり、信心は目の如くであり、唱題は足の如くで、目と足が具足して初めて寂光に赴くのである。だから修行が肝心であることを「智目行足到清涼池」というのである。
 大聖人は『法蓮抄』に
「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし。」(八一四頁)
と仰せである。
 かりに他流の輩が口に南無妙法蓮華経と唱えても、ただこれは宝山の空手、千里の道の空足にすぎない。それは本門の本尊を信じないからである。
 また、どんなに当宗の行者であっても、信心修行のない者は、足なくして千里の道を歩もうとするのと同じである。
 故に、まじめに信心修行の足を励む者は、必ず己心の寂光・清涼池に到るのである。
『当体義抄』に
「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり。」(七○一頁)
とお示しである。
(歴代法主全書四巻七六・同六巻二四五)
(高橋粛道)