妙法の当体
 
 柏(かしわ)、楓(かえで)という木はなかなか可憐な木であるが、元来開くべき花の性を備えていないので、開く、開かないの所論は全くない。

 ところが、梅や桜の木は冬の時分には葉が落ち、枝も寂しく枯れ木のように見えるけれども、元来開くべき花の性を必ず備えているので、鶯(うぐいす)の初音の春のころにもなると、彼の方の梅の花は咲くか、この方の桜は咲くかなどと言われて、人ごとに待ちわびている。梅や桜にはもとより開くべき花の性を備えているので、花が咲く、咲かないと言うのである。もし花の性を備えていないなら、だれもそのようなことを言わない。

 ちょうど柏や楓が花の性を備えていないように、一切衆生が仏知見を備えていないならば仏知見を開くなどとは言わないのである。けれども一切衆生は仏知見を備えているので、釈尊は「欲令衆生開仏知見」と説かれたのである。

 それでは、爾前の権教権門に執して、かえって法華経を謗ずる人々でも仏知見を備え、妙法の当体と言うことができるのであろうか。

 広く言えば一切衆生は普(あまね)く仏知見を備えているが、狭義には法華経を信じる人だけが妙法の当体であり、法華経を信じない人は妙法の当体とは言えない。したがって、爾前の権教権門に執する輩は仏知見を開くことができないから、未来において必ず地獄に堕ちるので、かえって地獄の当体ということになる。

 たとえば、どんなに咲くべき花の性を備えた梅や桜でも、深山の奥の理木となり、大木に日光を遮(さえぎ)られれば、ついに花の開くこともなく、やがて朽ち折れて樵(きこり)に釜の焚(た)き付けにされるだけである。そのように、権経権門の人は悪知識の大木・枯木におおわれ、善知識の日光にあわないので、花は咲くこともなく、未来において地獄の釜の焚き付けとなるのである。

 しかるに各々方々は三大秘法の春にあい、大善知識たる大聖人の光を蒙り、信力強盛の大根(おおね)をすえた朝夕不断の修行の行者であるから、我が身、妙法蓮華経の当体と悟り、即身成仏の素懐をとげることかできるのである。(序品談義・歴代法主全書四―七)
(高橋粛道)