僧侶の尊厳
 
 賓頭盧(びんずる)尊者は拘舎弥城優陀延王(うだえんのう)の臣下であったが、博識で慈悲深く、よく十善を修していたので王は許して出家させた。具足戒を受け、やがて阿羅漢を得た。
 王は後年、二十里ばかり離れていた城を出て、尊者の住坊に参礼した。時に多くの佞臣(ねいしん)達は、尊者が国王を門前まで迎えず、礼を尽くさなかったのを見て悪心を懐き、王を諌めた。王は佞言を受け入れ、非礼の尊者を殺害しようと思った。
 尊者は後に王が門に入るのを見て、直ちに床(ゆか)より下(お)りて七歩進んで王を寺中に迎え入れた。王が、「出家は上座から動かないのに、いま、席を離れて私を迎えるのはなぜですか」
 と問うと、尊者は、
「王が前に来た時は善心であったので、迎えのために門前に出なかったけれども、いまは悪意を持っているので、もし私が迎えに出なければ必ず殺害されると思ったからです」
 と答えた。王は、
「私は妄りに佞言を信じてしまった」
と、尊者に請うて過(とが)を悔いた。
そのため堕地獄は免れることができた。
 しかし、尊者は王に記して、
「僧が迎えに出るために七歩、歩いたことにより、あなたは後、七年にして必ず王位を失うでしょう」
 と言った。その如く、他国の兵が攻めて来て王は脚を鎖でつながれ、囚禁された。

 これは『四分律』に説かれていて、インドの僧の尊厳が国王に勝ることを示したものである。日寛上人は、
「たとい元家臣であっても、一度、妙法受持の僧となったからには尊敬すべきである」
と述べられている。
 インドにおいては国王でさえ、僧侶の上座にいることはなかった。師として礼を尽くしたのである。
 宗祖大聖人は『四信五品抄』に、
「優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如して七年の内に身を喪失し相州は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に遇えり(中略)罰を以て徳を推するに我が門人等は福過十号疑い無き者なり」(全集三四二頁)
と仰せになっている。
(歴代法主全書八巻)
(高橋粛道)