釈尊の背痛
 
 釈尊は舎利弗に次のように告げた。
 久遠の昔に国の節会日を祝して羅閲大城で大会が催された。刹利(せつり)と婆羅門の二人の力士がこの節会に来て相撲をとることになった。婆羅門は刹利に「汝、我れを撲つ(なぐる)ことなかれ、約束を守ってくれれば君に銭宝を与えよう」と言うので、刹利は力を十分に出しきらずに婆羅門を屈伏せしめた。二人は共に王から償をもらったが、婆羅門は刹利との約束を守らなかった。
 後の節会日にまた二人が釆て相撲をとった。婆羅門は前のように許しを求め、刹利はその通りにしてやったが、また恩に報いなかった。このようにして三度目となったので、刹利はしばしば欺(あざむ)かれたと思い「汝は三度私を誑(あざむ)いた」と言い、物を使わず右の手で婆羅婆門の頭を押さえ、左の手で腰を捉えて、つつめてその脊椎(せきつい)を折った。それはまるで甘蔗(かんしょ)を折るようにである。さらに婆羅門の体をフ(ささ)げて三度回して人々に見せしめた。それから地に撲(う)ち、そして地に堕とした。そのために婆羅門は死んでしまった。それを見ていた王は大いに歓喜し、銭十万を与えた。
「舎利弗よ、刹利の力士とは私であり、婆羅門とは調達(提婆達多)である。私は瞋(いか)りをもって撲殺した。この罪により約千歳地獄に堕ち、今仏陀となったが、残縁がある故に背痛を患っているのである」と。

 これは興起経に説かれ、弘決に引用されている。日寛上人は「世尊でも苦の業因を免れることができないのだから、迷倒の凡夫はなおのことである。もし正法を聴聞できなければ現業も、まして宿業も消滅することができない。しかし、信心が強盛であれば宿業も滅することが可能である」と仰せである。
(歴代法主全書四巻)
            (高橋粛道)