大 白 法令和8年5月1日付
  
          総本山第51世 日英上人の御事蹟
 
 総本山第五十一世日英上人の第百五十回遠忌法要が六月二十三日・二十四日、総本山において奉修されます。そこで、日英上人の御事蹟を掲載します。

 日英上人は、字を「広探」と称され、また阿闍梨号を「舎人阿闍梨」、院号を「泰久院」と号されました。

御誕生から御登座まで

 日英上人は、江戸時代中期の寛政(一七九八)年、武蔵国足立郡舎人村(現在の東京都足立区)の平柳富右工門の六男として御誕生されました。
 その後、文化二(一八〇五)年八月七日、八歳の時に江戸妙縁寺の日脱師を師範として出家得度されています。
 文化六(一八〇九)年九月一日には上総国の細草檀林(現在の千葉県大網白里市)に入られ、刻苦勉励の末、文政十一(一八二八)年五月一日、細草檀林八十六代の化主となられました。
 この頃、筑波・本證寺住職となり、同年八月には能化へ昇進され、九月十三日には江戸妙縁寺の第十九代住職として赴任されています。
 そして天保七(一八三六)年四月二十五日、三十三代学頭として蓮蔵坊へと移り、同年五月に第四十八世日量上人から唯授一人の血脈を御相承されて、翌月二十日、第五十一世の御法主上人として大坊へと入られました。

法難惹起と寺院建立

 江戸時代は、幕府によって布教や改宗が厳しく制約されていました。そのなかでも、大聖人の破邪顕正の精神を受け継いだ本宗僧俗が折伏教化を進めたことで、大石寺へと帰依する者が続出しました。このため、為政者や他宗の僧俗によって大石寺門徒への迫害が加えられ、全国各地で法難が惹起したのです。
 日英上人の御当職中である江戸末期には、天保年間の蛇窪法難や八戸法難、弘化年間の猫沢法難などが起こりました。まさに大石寺僧俗にとって、艱難辛苦の連続ともいうべき時代でした。
 これらの法難に際し、日英上人は自らお書き入れをされた第三十三世日元上人御書写の御本尊を、蛇窪法難渦中の信行講中に授与されています。
 また、御隠尊であられた日量上人も尾張法難に対応されるなど、当時の御法主上人は各地の信徒への激励に努められました。
 そうした困難を経つつも、激動の法難を機縁として、のちに日英上人を開基とする玄中寺(青森県八戸市)、感恩寺(岩手県盛岡市)が建立されています。

異流義「堅樹派」の破折

 江戸時代後期の明和九(一七七二)年には、堅樹日好が異流義の一派「堅樹派」を起こしましたが、本宗僧俗の強力な折伏によって、明治中期にはその姿を見ることはなくなりました。
 御当職の日英上人は、前述した法難への対応のかたわら異流義破折の陣頭指揮を執られ、弘化二(一八四五)年頃に上州小夜戸村(現在の群馬県みどり市)在住の松島又兵衛へ、堅樹派破折の書状を授与されました。また、翌弘化三(一八四六)年十月には『当流正義論』を撰し、演妙日敬師等とともに正義の顕揚に心血を注がれました。

将軍家や諸大名家への教化

 日英上人は嘉永六(一八五三)年六月二十日、五十六歳の時、第五十二世日霑上人に血脈を相承されました。
 そして富士見庵へと移り、御隠尊上人として弟子・信徒の薫育に力を尽くされます。
 その教化を受けた信徒に、江戸常泉寺の信徒・高野周助がいます。感恩寺建立の経緯を目の当たりにしていた周助は、日英上人の御指南を仰ぎながら、自らが出入りする薩摩藩邸の藩主を折伏する大願を起こしたのです。
 そこで周助はまず、本宗信徒・薩摩藩奥老女(奥向きの総取締役)の小野嶋に働きかけ、八戸南部藩邸に出入りをして、同藩の老女・喜佐野を折伏し、その縁で八戸藩主・南部信順公が入信しました。
 信順公は、薩摩島津家の出身で、養子として南部藩に入りました。また、薩摩藩主・島津斉彬公の大叔父にあたり、両者には密接な関係がありました。
 その信順公と前出の小野嶋による折伏により、ついに薩摩藩主の斉彬公、その養女の篤姫(のちの天璋院)が入信に至り、安政元(一八五四)年八月には、日英上人より信順公、斉彬公、篤姫に対し、御本尊等が下付されています。
 また、文久二(一八六二)年六月十五日には、島津斉彬公の寄進をもとに、日英上人が総本山塔中遠信坊の再々興を図り、御本尊を書写されています。
 これは、篤姫が江戸幕府第十三代将軍・徳川家定公の正室となったことへの報恩の御供養としてのものであり、日英上人はここに住まわれました。
 慶応元(一八六五)五月七日、第五十三世日盛上人が大坊を辞されたので、日英上人は再び大坊に住され、翌閏五月十五日には大坊を辞して、日霑上人が再住されています。
 そして日英上人は、明治十(一八七七)年七月九日(旧暦五月二十九日)、かねての遺言のとおり、第四十八世日量上人の御命日である五月二十九日、八十歳で安祥として抑遷化あそばされました。
 葬儀の様子について、御弟子の第五十五世日布上人は、
「七月十五日御葬祭申上候御天気都合も宜敷御当日には凡そ壱万人程之拝礼大群集実に御高徳万端」(諸記録九一一三七n)と、御本葬が天気に恵まれ一万人の大群衆のもと執行されたと、その御高徳をたたえられています。
 幕末の宗教統制下、法難の嵐が吹き荒れるたいへん厳しい時代にあって、日英上人は敢然として布教を進められました。
 そのなかには、新寺建立や諸大名家等の帰依など、宗史に輝く御功績があります。これらの先師先達の御化導に拝し得る果敢な折伏の精神を、私たちは終生の鑑としなければなりません。