要法寺開山日尊上人
 
 日尊師は京・要法寺開山上人で、日興門下で最初に帝都弘教を遂げた人である。
 日尊師は陸前国登米郡(現在の宮城県登米郡中田町)の出生で、天台宗長谷寺に身を投じ修学に励んだ。その後、三迫六丁目(現在の中田町玉江新井田字六丁目)にあった布佐邸に於いて日目上人に会い、その学徳に触れ入門を決意した。時に尊師十九歳、日目上人二十四歳、日興上人三十八歳で、宗祖滅後翌年の弘安六年のことである。越えて弘安七年五月、日目上人に随身して身延山に帰り、同年十月に日興上人の室に入り、大聖人の三回忌法要の末座に列した。
 日興上人の身延離山には師の日目上人と共に随従し、大石寺創建に尽力し、自らも塔中・久成坊を創した。上野に、そして重須にと富士の教義を修め、大いに信行の増進をはかったが、青年期の天台学研鑚の余習からか、富士の教義になじめないところがあった。
 正安元年(一二九九)の秋、日興上人の講義中、尊師は秋風に吹かれて落ちる枯れ葉に目を移した。日興上人はその求道の姿勢を見られ、大法を弘める者が他事に気を奪われる道理がないとして破門に処してしまった。尊師は日興上人の訓誡に心を曲げず各地に弘教の歩みを運び、寺院を改宗させたり、住居を寺にしたり、新寺を建てたりで、十二年の内(一二九九〜一三一一)に三十六箇の寺院を建立した。その間、尊師は毎年、重須の門前に来て遥かに御影堂に向かって合掌したという。破門後十二年にして日興上人は面会を赦し、三十六幅の自筆の本尊を授与して破門を解いたといわれる。まことに尊師はまれにみる大布教家であった。
 ところで、長期にわたる尊師の破門の原因を日尊実録や祖師伝、家中抄はいずれも尊師の求道心の弛緩に求め、日興上人の厳格さ、それに応えた尊師の卓越した布教力を記すのみで、直接の破門の理由については記していないように思えてならない。敢えてその原因を探るなら、おそらく尊師がいまだ宗祖以来の富士の伝統教義を体得していなかったことから生じたものであろう。奥州での神天上の誤判、雲州安養寺の阿弥陀像開眼、会津妙福寺の地蔵像開眼の伝説、興向二師寂光の同座はそのことを示していよう。
 けれども尊師は、破門を契機に発奮(はっぷん)して死身弘法の布教に打ち込み、岩代一円寺の開基たる沢尻殿の神詣を禁じるなど、富士の教義を体得していったようである。
 それにしても尊師の布教は目を見張るものがある。現在、二十八箇寺が確認されているが、布教は北は出羽から南は出雲に至るまで広範囲にわたっていて、左の如くである。
 正安二年(一三〇〇)
  出雲(島根県)馬木の安養寺
    ( 〃 )妙剛寺
    ( 〃 )須所の妙音寺
    ( 〃 )馬木の金言寺
 正安三年(一三〇一)
  岩代(福島県)立子山の一円寺
  伊豆(静岡県)柳瀬の実成寺
  石見(鳥取県)大田の法蔵寺
 嘉元元年(一三〇三)
  会津(福島県)黒川の実成寺
  岩代( 〃 )岩瀬の満願寺
  下野(栃木県)小薬の浄円寺
  下総(茨城県)猿島の富久成寺
  武蔵(埼玉県)粂原の妙本寺
  美濃(岐阜県)岐阜の正興寺
嘉元二年(一三〇四)
 岩代(福島県)仁井田の願成寺
 丹後(京都府)奥大野の長福寺
嘉元三年(一三〇五)
 岩代(福島県)渡の仏眼寺
 会津( 〃 )細工名の妙福寺
徳治元年(一三〇六)
 出羽(山形県)高畠の妙国寺
   ( 〃 )米沢の妙円寺
 出雲(島根県)朝山の妙伝寺
延慶元年(一三〇八)
 山城(京都府)上行院
延慶三年(一三一〇)
 出雲(島根県)東郷の東満寺
応長元年(一三一一)
 出雲(島根県)平田の本妙寺
正和元年(一三一二)
 武蔵(東京都)浅草の妙円寺
暦応元年(一三三八)
 出雲(島根県)松江の菩提寺
年代不明
 下野(栃木県)那須稗田法華堂
   ( 〃 )石田法華堂
 丹波(兵庫県)上興寺
(両上人正伝三九四)

 元弘三年、六十九歳の尊師は郷師と共に日目上人最後の天奏のお伴をしている。日目上人は「園城寺申状を明確にすべく、持病の足痛と七十四歳の頽齢(たいれい)とをかえりみず、十一月の寒天に日尊日郷の両人を伴侶の杖とたのみて京都へと急がれ、老の弱脚を踏みしめ不便の宿りを重ねて、ようやく美濃の高原にさしかかったとき、胆吹颪(いぶきおろし)に雪をまじえて面を向くべくもなく、ついに病みつかれて、十一月十五日、垂井の仮の宿に両師に看護せられて無念の最期をとげられたは、いかばかり歎かわしいことで、両師の心情思いやるだに涙である。
 茶毘の後、日郷は遺骨を奉じて富士に帰り、日尊は滞洛(たいらく)して先師の懐を暢べる」(詳伝四五六)ために後醍醐天皇へ上奏を遂げたのである。富谷の日宗年表によれば、建武元年春のことである。この功によって尊師は六角油小路に土地と、紫の小袖とを賜い、二位法印に賞叙されたという。尊師はここに法華堂=上行院(要法寺の基源・ただし富谷は法華堂を勘当中の建立とし、延慶元年説)を建て、子弟檀越の教化につとめたのである。
 また、尊師が富士門下の面目躍如たるものがあるのは、けっして漫荼羅本尊を自ら書写しなかったであろうことである。日大の『日尊上人仰云』によると「一本尊書写の事……富士門跡付弟一人之を書写し奉る可きの由、日興上人御遺誡なり……吾が一門に於ては本義の如く一人之を書写し奉る可きか……所詮大聖人御自筆の本尊を印板に彫み当座道場六人の衆徒一同の評定と為て、信心の強弱行業の久近給仕の忠否香華供養の堪否を糺明して一揆の衆義を以て之を授与す可し」(宗全二―四一八)とて、尊師は「付弟一人の書写」の遺誡を守って生涯本尊を書写することはなかったようである。それを裏付けるように尊師自筆の漫荼羅は一幅も現存していない。また、本尊授与に際しても大聖人御自筆の本尊を形木にして下附すべきことを説いている。
 ただ、西山も北山もその他の大寺もそうであったように、尊師も上行院を大石寺の末寺とする本末意識を持たず、独立した本寺であると考えていた。やはりそれが日興門流でありながら日興上人の本流から遠ざかる原因となり、高弟日大は本尊を書写する師敵対を犯すなど、次第に本尊観にも主観が含まれていった。
 尊師七十七歳の晩年(暦応四年)上行院において新檀那から立像釈迦・十大弟子像の寄進を受けた。資の日印は西山日代への書状の中に「当院(上行院)仏像造立の事、故上人(日興上人)の御時誡め候の間の由、師匠にて候人(日尊)仰せられ候ひ畢んぬ、今は造立せられ候の間不審千万に候、此の仏像の事は去る暦応四年に有る仁の方より安置候へとて寄進せしめ候ひ畢んぬ。教主は立像、脇士は十大弟子にて御座候、仍って大聖人御立義に相違の間疑ひ少からず候」(宗全二―四〇八)
と記しているが、尊師は誤謬と知りながら本堂に仏像を安置したようで、付弟の日印すら疑問を懐いたのである。
 これを淵源として尊門は本尊に定見を失い、その時々によって仏像の存廃を繰り返すのである。後に日印の上行院に対して日大が京・西洞院に法華堂=住本寺を建て、日興門流で最初(正平十七年)に四菩薩を造立したが、本尊であれば小乗仏より久成仏に移行するのは必然の成り行きであり、その非は立像仏を最初に認めた尊師に求められるべきであろうか。
 貞和元年五月八日、日尊師は八十一歳の生涯を静かに閉じた。
 日興上人詳伝
 両上人正伝
 日宗年表
 本山要法寺
           (高橋粛道)