尾張法難(嘉永度の余波と安政度)
 
 寺社奉行の手から逃れて潜伏していた増右衛門にも遂に拘禁(こうきん)の時が来た。期間は三日で、記録はないが烈(はげ)しい糾問を受けたようである。役人は家老山澄らのことを思うとそれ以上の理不尽な責はできず、後の処置は役寺に回し、役寺に右京、利蔵、増右衛門の三人の教化を一任したのである。
 寺社奉行成田定之右衛門の命により名古屋寺町法華寺において対談することになった。これには能化役として
勝劣派京都妙満寺門流 役寺 常徳寺
勝劣派越後本成寺門流 役寺 妙本寺
一致派京都本国寺門流 本遠寺
一致派身延山門流    役寺 大光寺
一致派池上門流      役寺 本住寺
一致派京都本国寺門流 法華寺日教
(一致派か)        本要寺日妙
   
 以上の七人で、いずれも選抜(えりぬ)きの上人といわれる人達であった。寺社の役人二人は障子を隔てて控えていた。
 第一回を十月二十五日、第二回を十一月二日、第三回を十一月十日として都合三回の対談であったが、利蔵らを教化するどころか、かえって詰問にあうと沈黙を重ね「腫物(はれもの)が出て長居ができない」といって対論を打ち切る有様であった。その上、二箇相承を真書と言ったり、身延山の波木井日円の謗法を事実と認めたりで、何とも無慙(むざん)な上人達であった。臨監した役人もさぞかし高僧達の無能ぶり、不誠実さには驚いたことであろう。本来、利蔵達を論詰して改宗さすべき任を担いながらである。
 そして最後に言うのには「領内では富士派信仰は御停止(ごちょうじ)であるから、密(ひそ)かに信仰する分はよいが、檀那寺の宗式を守り、かつ自讃毀他のないように」と頼むのであった。この七大寺の態度に対し堀上人は「然らば彼等は多大の資力と脳力とを費(ついや)して得たる所は何物であったか、何たる愚挙であろう、数千金を費して公私に迫害を起こして得たものはゼロだ、内得信仰は始から定っておる」と噴飯(ふんぱん)されている。結局のところ、役寺は利蔵達から富士信仰を没収できず、内得信仰を改めて檀那寺が追認するという、理解しがたい大失態を演じたのである。
 利蔵達が論争を控え、従来通り檀那寺へ年忌仏事等を始め諸事に附届をし、富士派の信仰に励んだのは言うまでもない。
 これにて法難は落着したかに思えたが、余波が名古屋に及び、嘉永元年(一八四八)十二月、高崎唯六に対し寺社奉行より唯六の属する御広敷御用人・水野惣左衛門を経て、同役安藤清之丞から書状が手渡された。これは書面による取り調べで、同年十二月二十六日、翌年一月二十六日、三月五日の三回であった。また、嘉永二年三月十六日に小出小作、七月二十五日に正作と磯村与八郎が奉行所に召喚され、八月三日には両人が「恐れ入」の一札を徴せられた。十一月に至り正作、与八郎はまたも召喚され、奉行の調べを受けた。
 嘉永三年正月に高崎唯六は病死したが、先の尋問に対し何らの処置もなく、この年は無事であった。しかし、翌四年五月十八日に増右衛門が処刑された。今まで増右衛門には拘禁、入牢等のことがなかったが、ここに来て遂に一人押込(おしこめ)に処せられた。期間は五十日であった。同じくこの年の五月、正作、与八郎が押込に処せられた。唯六は既に他界していたので、国老横井伊折介は跡目の捨書に「病死の為沙汰に及ばず」と申渡しをした。この申渡書(判決文)を見れば三人を調べた要目のほぼ全容がわかるので、高崎唯六への分を記す。正作、与八郎の申渡しも唯六と大差がない。
 「先年、檀那寺の宗式を守り、富士派の信仰をしないように触れを出したが、その触れを知りながら、日蓮宗に諸派ある中では興門流でなければ成仏できないといい、無常講会などで導師をし、祖書の講釈をやり、説法をしている。講中の内には心得違いの者も現れた。ことに祖師の祥月命日忌や法難会には同志が集合し、志銭等を集め大石寺へ供養している。また、本山へ参詣の者には御開扉の便宜を計るために寂日坊へ手紙を持たせている。また、病気の折、熱海入湯の暇を願いながら、偽って大石寺へ参詣し、源僖公(斉温)源懿公(斉荘)両君の病気には平癒の祈念をしたり、逝去には菩提を祈り、かつ大石寺にも回向料を添え王君の回向を頼んでいる。これは奇特ではあるが、恐多しとの弁えがなく、猥りに取り計らっている」。これが申渡書の要旨である。
 両君の逝去に際し、唯六らは菩提を弔うために大石寺に回向を願ったが、この際、法諡(ほうし)の長短、位牌を造立したかどうか尋ねられた。位碑でも造れば身分不相応の不敬の咎を下すつもりであったが、そういうことがなかったのは幸いであった。
 同じ年、尾張藩から家中触、町触が出て武家町人の富士派信仰を禁止する旨の発令があった。
 嘉永六年三月、増右衛門は再び追放に処せられたが、詳細を伝える文献がない。
 これにてようやく嘉永度の法難は終わり、しばらくは平穏が続いた。
 安政は現代に近いので文献が豊富にあるべきはずが、伝説のみなのは残念である。増右衛門の死去により記録者を失ったからかもしれない。
 安政元年(一八五四)十一月に左京は、筆戦であるが玉禅院と二回本迹論争をして勝利を得、利蔵もまた健在で、同二年二月十九日、玉泉院と口論対決し、論伏している。左京は玉禅院との問答より、本寺本遠寺に安政五年の四月に至るまでの長期間拘留され、その間、再々の寺社方の説得に応じないため、遂に追放に処せられ無宿の民となった。
 また、安政五年七月、米野の大法難となり、善之右衛門、彦七、清九郎等が寺社に引っ張られ、善之右衛門は百日の入牢となった。彦七、清九郎は兄弟で、熱烈な信仰者であったので、兄弟は長兄の彦助を入信させようとしたが、逆に彦助は激怒し、多くの一致派信者と謀って両人を切支丹と役所に誣告した。そのため七月七日、直ちに入牢となり、吟味も厳しく、石三枚を抱かされて肉が裂け、算盤を血に染める無残さであった。富士派の信仰であることが判明しても拷問の手は緩まなかった。激痛を唱題で耐えながら、清九郎は五十日目に、兄の彦七は百日目に入牢が解かれた。
 さらに十一月八日に各村から二十余名が奉行所に拘引されたが、名前・村名が不明であるのは遺憾である。
 以後、明治時代になり信仰の自由の保障から転宗転派が自由な時代が来るまでの十九年間は寺社を煩(わずら)わす法難はなかったが、常の如く私的迫害は一年もやまなかったようである。
 明治期に、この法難の地にもようやく興道寺、妙道寺、そして少し遅れて妙経寺が建立された。
 (富士宗学要集九巻・尾張法難史・同史料)
            (高橋粛道)