尾張法難(嘉永度)
 
 弘化三年(一八四六)から嘉永六年(一八五三)の八年間は法難の絶頂期にして、受難は最も苛酷(かこく)を極めた時であった。
 弘化三年秋、入鹿(いるか)新田村の人々が青年の活動豊かな善之右衛門に対し、早いうちにその芽を切り取らんとして、宗門改めの際「切支丹(きりしたん)」と誣告(ぶこく)したのであった。その理由は、一には善之右衛門に極刑を課したいためであり、一には切支丹の訴人は莫大な賞金を得れるという、一挙両得を計算してのことであった。
 しかし、役人が調査してみると、善之右衛門は切支丹でないことが判明し、かえって密告者がお咎(とが)めを受けることになった。長い間、法難と背中合わせの信心で憂鬱(ゆううつ)な日々の連続であったが、この時だけは北在の信徒にも久しぶりに悦びが戻ってきた。その時の狂歌。
「ぜんのへ(善之右衛門)を あだみ過して咎め受け どんな顔して入鹿新田 (利蔵)」
 同年十月二十三日の夜、名古屋の大寺で、身延山久遠寺の末寺である大光寺の隠居・菩提院が、御書の講釈という触れ込みで八剣村の長遠寺の座敷八畳二間に知識階級ともいうべき人々を多数集めた。
 平松増右衛門は檀家のことでもあり、当然聴聞に参加したが、岩田利蔵は檀家でもないのに寺の肝煎(きもいり)から呼状(よびじょう)が来て参加することになった。目的は増右衛門、利蔵達の富士派の主立(おもだ)つ者を教訓しようとしてのことであった。
 講釈は実のないものであったが、その話のなかに両人を挑発する文句があったらしく、両人は黙止し難く二、三の質問をすると、明確な返答ができず、苦しまぎれに襖(ふすま)を締め切って奥の間に逃げ込んでしまう、とんだ醜態(しゅうたい)をさらけ出してしまった。
 またしても同心の者は心が晴ればれとして溜飲(りゅういん)の下がる思いであったが、好事は続くものでない、善之右衛門に対する失敗、菩提院の恥さらしは恨みとなって消えず、この年の十一月に表れてきた。
 増右衛門の婿に当たる常蔵と、その兄の喜八とが寺社方に引っ張られた。
 一日、奉行所で痛めつけられ、智定院との対決を強いられた。これは初めから仕組まれていたので、法門の勝敗は問題でなく、両人は改悔状を出すはめになった。
 しかし、これぐらいで満足する悪徒てはなかった。
 嘉永元年(一八四八)二月、智定院はあの手、この手を使って右京を陥落しようと画策した。
 十八日夜、狡猾(こうかつ)にも自ら顔を出さず、弟子檀那を使い諍論を仕掛けてきた。だが右京はその手に乗らず、平穏に対応した。そして、翌日、百計尽きた夭僧は突然、右京・左京(親子)の両人を妙楽寺に呼びつけて、昨夜の誤り証文を出すように要求してきた。提出しないなら宗判を差し止めると威(おど)したが、右京は拒否した。そのため右京は差し止められたが、家内の宗門送りだけでも貰いたいと頼んだので、妙楽寺もしぶしぶ容認した。けれども、妙楽寺は約束を改変し、認めぬと通告してきたので、右京はやむをえず争う決心をした。
 従前からの経緯を委細に報告するために案文(願面)を増右衛門に作成してもらい、これを役所に提出しようとした。しかし、提出すれば庄屋も巻き込む事件となるので、庄屋は間に入り、妙楽寺を説得して、今年だけは無事に宗判を済ますことで落ち着いた。
 その後、五月に入って本遠寺より右京・左京に呼状が到来し、智定院は願面に誤りがあるというのであった。さらに六月に入り、既に消え失せた話と思っていた誤り証文に対し、証文を出さぬという理由で左京は八幡宮の神職(神主であったが富士の信仰を熱心にしていた)を奪われることになった。
 八月二十五日、奉行所の御意として右京は本遠寺に留置され、翌日、相手方の暴状を受けるはめになった。が、このような犬群の如き喧(かまびす)しいなかには何事も弁明できないので、右京は寺社方の公明なる尋問を受けたいと主張したのである。
 奉行所での尋問―それは自然の成り行きであり、公正さを期待したが、逆に悪しき方向へと進んでいくことになってしまった。利歳・善之右衛門・日比浄健・清助等々も次々に拘禁となった。吟味(ぎんみ)役の同心衆は利蔵等の主張を全く無視し、当初から富士派を邪宗門と決めつけ、転向せしめようと苔杖(ちじょう)を容赦なく打ちつけた。それがために信徒の皮肉は切れ、激痛が走った。利蔵はソロバン責で石の二、三枚を懐かさせられた。善之右衛門は割れ竹を膝に挟み、それを無理に引き出す拷問を受け、また無宿者の吟味場に連れ込まれ半死半生の責めに遭った。
 役人のこのような執拗(しつよう)なまでの苛酷な責めには裏があった。八剣の市蔵は金にいとめをつけず、たとい身代を潰すとも富士派の者どもを対治してほしいと役人に賄賂を贈ったのである。
 嘉永元年九月九日、善之右衛門は放免され、帰村したが、この時は命は助かったものの農業に従事できないほど痛めつけられ、廃人同様の無残な姿であった。
 一方、増右衛門は同心衆の捕縛を免れながら各所に潜伏し、願書を認め、国老・石河出羽守織田太郎左衛門の内見に供すべき赦免の運動に努めた。
 また一方、名古屋の信徒・日比野林右衛門は主人の国老・山澄右近を動かそうとしたが、自分の力ではどうにもならないので、山澄家の養女であった「みの」女が小木の舟橋浅右衛門に嫁いでいる縁をたよりに右近に内願してもらった。右近も利蔵らに同情し、赦免のために動いてくれた。
 それが効を奏し、九月二十六日、清助が許された。二十七日に右京、十月四日に利蔵が解放きれた。利蔵は身体の自由を全く失って、カゴに来って帰村せざるをえなかった。特に利蔵は奉行所でも第一の硬骨と見込んでいたので、責め殺す目的であったという。しかし、どうにか全員放免され、一同、法悦の涙を流して再会を悦んだのである。(以下次号)
(富士宗学要集九巻、尾張法難史・ 同史料)
           (高橋粛道)