妙 縁 寺 件
 
 大石寺の江戸三寺院の一つである妙縁寺を本山要法寺が自山の末寺に帰属せしめようとした事件が幕末に起こり、論争が三年に及んだ。

 本件の資料について堀上人は「当時の記録妙縁寺に在り無題なり但し安政二年夏よりのものにして嘉永七年(安政元年)より安政二年春迄の分は大石寺側には其扣(ひかえ)見当らず」と記されているが、今年の七月に松島晃靖氏宅を約二十年ぶりに訪問した際、偶然に嘉永七年夏までの資料を見る機会を得た。あるいは安政二年春までの資料も松島家に所蔵されているかも知れないが、辺境の一末寺の住持たる私には調査の時間もとれないので、明細は後日に譲り、新旧の資料を合わせて事件の概要を記すことにする。

 要法寺が妙縁寺を自山の末寺に帰属せしめようとした第一の理由は、従前、要法寺は東都に末寺を有しなかったため、江戸に末寺を獲得して大法弘通の拠点にしたいと考えたからであり、第二に役僧の出訴、法要、公用等の宿所にあてがいたかったからである。それまでは両寺通用の間柄であったので大石寺末の三箇寺を宿舎としていたが、不自由であった。特に訴訟事件が起こればはるばる京都から上京し、事件によっては一年を越える長期間滞在や数度の往復もやむをえぬことであった。さらに将軍への年札、御朱印改めのための出府等と、その費用は末寺からの援助も含めて膨大な浪費であった。
 そして何よりも妙縁寺は元来、要法寺の所有寺院であったからである。妙縁寺の前身は妙因寺といい、尊師建立三十六箇の一つであり、要法寺としては従来どおり、なんとしても自山の末寺にしたかったのである。不退転の決意で裁判に臨み、敗訴となりながらも、明治に入り妙縁寺を要山末にしようとする動きが再燃するのも上記のことを背景にしているからである。

 そもそも妙縁寺は京要法寺開山・日尊師によって浅草阿部川町辺り(現今の元浅草四丁目付近)に建立された模様で、『地誌御調書上帳』には「申し伝えはあるが、書物等はない」と記すように、早くから廃寺になっていたようである。開基後約三百年を経た寛永六年(一六二九)大石寺十九世日舜上人によって現在の中の郷に妙縁寺が再興された。それより妙縁寺は大石寺の指揮下に入り、住持の派遣も本山からなされた。
 けれども、要法寺は大石寺末に異議を差し挟(はさ)み、天明六年(一七八六)大石寺三十九世日純上人時代、自山の末寺にしようと企てた。諸末寺改めの節、要法寺末と末寺帳に記し、役寺・芝長応寺に提出した。書面を受け取った役寺は一寺両本山では不都合なので調査に入り、本尊、仏具、法衣等を調べると要山式と異なっているため、要山末を削除し、大石寺末とすることで落着した。

 その後両山の関係は平穏であったが、寛政法乱の際、大石寺の要法寺に対する態度に不満が生じ、険悪になり、両者の交通は停止し、それが妙縁寺返還運動の一つとして現れてきた。

 嘉永六年(一八五三)十一月、末寺取り調べに際し、要法寺は触頭・本妙寺へ大石寺に一言の断りもなく、末寺帳に妙縁寺を書き加えて提出した。今度ばかりは全山挙げての運動であった。
 さらに翌年の二月二十七日、要法寺は妙縁寺が要山末である旨を大石寺に通告してきた。その理由は、元来、妙縁寺は要法寺の所有で、両寺通融のころ、日精上人が臨時の計らいとして大石寺未と記したものであり、また、妙縁寺を大石寺に任せたとはいえ、礼式が守られず、近代数歳その筋目が断絶したからであるというのである。

 この書状を受けた大石寺は直ちに反論の筆を執(と)り、三月十五日、書を送付した。
 一に、今までの数度の末寺改めは、すべて石山末としている。
 二に、数代の住憎はすべて大石寺より派遣し、執務している。
 三に、礼式が守られないといいながら、数代放置している。
 四に、少檀無禄の貪寺を維持し、特に宝永文化の類焼を再建したのは大石寺であり、この間少しの談合もなかった。
 五に、精師遷化後百七十余年経過するが、要法寺の世話を受けたことがない。
 六に、寛政法乱の公訴に際し、末寺とするなら宿所を妙縁寺にすべきを、小梅常泉寺に頼んでいる。
 以上、およそ六項目にわたって反論を試みた。

 四月に理境坊は本件につき京要法寺を訪ね、要山末を抹消するように掛け合ったが拒否された。
 同月、江戸表丸山本妙寺は両山(要法寺は智伝院日貫)の役者を出府させ、吟味(ぎんみ)し、調停を試みたが、成功するはずがなかった。当然、判断は役寺の手を離れ奉行所へと移行していくことになるが、役寺は調停の失敗を大石寺側にありとし「虚談強情のみ申し募り」手におえぬからと「差出」の理由を述べている。また、両者の証拠書類は一度役寺が受理してから、後に奉行所に提出する決まりがあるのだが、大石寺の提出書類に対し、その中の三分の一は証拠にならず、逆に要法寺の「潤色(じゅんしょく)となる」などと、私見を付して寺社奉行所へ差し出している。

 本来、中立を保持すべき触頭がこうした公正さを欠いた大石寺への偏見は、猫沢法難の後遺症が役寺になおも残っていたからであろう。ともかく大石寺にとってはかなり厳しい状況下での闘争であった。
 七月十八日、双方呼び出しになり、滝沢喜太郎の吟味(ぎんみ)が始まるが、奉行所は「内輪(うちわ)」のもめごとと捉(とら)えていたようである。

 これより論争に関する安政二年春までの資料は大石寺側にはなく、要山資料はやや客観性を欠く面もあるが、要法寺は三通の証文(延宝四年、大石寺日精より要法寺へ渡し置き候証文の写。妙縁寺日信、同隠居日応より要法寺三十二世日眷に差出候証文の写。同寺日隆より要法寺三十三世日奠へ差出候証文の写)などを武器に自説を主張した。引き続き要山は奉行所への懇願を執拗に続けていた。

 一方、大石寺も七月十七日、書を奉行所に提出し、本格的に応戦することになった。
 十月に入って、要法寺四十四代日生と代官本住院・本行院・真如院の連名で『勧進発起』と題する書を同門末寺の真俗に配布し、浄財の喜捨を呼び掛けた。少し長文だが、要集未載と要山の逼迫(ひっぱく)とを見る理由で紹介する。

  勧進発起
一、今般出役せしめ候趣意は、先達て紙面を以て披露に及び置き候二箇条出来(しゅったい)に付き、仏意を窺(うかが)い衆評を遂ぐ者也、当夏の大地震にて崩破の場所等漸(ようや)くに此の節迄普請(ふしん)成就致され候間、一統安心これ有るべく候。さて江戸表当山末寺の妙縁寺一件は昨冬役寺より申し来り候故、去る五月以来役者出府御吟味最中に候、同寺儀延宝四年大石寺より預り証文これ有り、宝永七年、寛保元年の一札二通、天明度の内熟、引合の旧記等その外数通の証拠物、これ迄嗣法代々先師御相伝の函に納り伝来致し置き候、自然此の度時節到来に任せ右の出入に相成(中略)先年諸山と吾山と一件の砌、大石寺の臆病と狂惑より事起こり、彼者関東え臈次(ろうじ)も無く書上げ言語道断傍若無人の振舞見るに忍びず、賊徒の外に求む事無き者歎(中略)亦旧年大坂蓮華寺などの儀も数代年序を経(へ)謀計を以て今の如く成就致されおり候、又近年信徒門中の手入などいたし候事も眼前に候得ば、この度御公儀諸末寺改仰せ出され候妙縁寺も帳外に相成候上は、一統兼ねて見知の通り奥州仙台仏眼寺、並びに同寺附四五箇寺等も弥弥(いよいよ)当山の下知を以て自然に相用いざる様成り来り、本寺の威光を失い誠に嘆か敷き次第に候得ば、此の度も妙縁寺一箇寺の儀にてはこれなし、これに依り黙止し難き一条に候(中略)殊に妙縁寺は御開山直々御弘通所、三六建立の御旧跡に候所中絶に及び、当山より大石寺え遣わし日舜の取立てに相成居り候、これに依りこの度末寺改の幸時を得本来異体同心致し一命に換え取返し候得ば、御開祖の御本懐これに過ぎず、則ち東都別府に於いて正統の大法弘通の基に相成り本末一統頼む所に候、将亦(はたまた)出訴の節法用公用等の宿所差支えこれなし、永世の本望大法弘顕の至時と存じられ候、末山の真俗一統信力強盛逼至(ひっし)の思を励まし喜捨施入勧進頼入候。

 翌安政二年六月二十日と八月十三日の両日、日霑上人は理をもって当山末の旨を寺社奉行に訴え、その後も何度か呼状が届き、双方は持てるすべての資料を提出して調べを受けた。
 同年十一月二十五日、役寺の呼状により石山が出府すると、本妙寺はおそらく要法寺の意向を入れてであろう打開案を打ち出した。それは妙縁寺を要法寺に譲渡するかわりに趣意金を受け取ってほしいという案であった。新寺建立のできない時代にこの案は非常識なもので、もちろん大石寺が拒否したのは当然のことであった。
 要山としては裁判の行方に暗雲がただよったことを察知したからであり、二年余の冗費(じょうひ)を思うと最後の望みでもあった。それは奉行所がたとえ要山に理解を示したとて、一度ならず数度まで大石寺末と提出した以上、奉行所とても容易に改められず、要山の勝利はあるべきはずもなかった。そのことを知ると要山はあせり、史実を切り崩そうと執拗(しつよう)にねばり、御上(おかみ)の理解を懇願したが、結局聞き入れてもらえなかった。

 安政三年四月六日、判決が下りた。奉行所は両者の言い分を常識的に判断し、大石寺勝利の理由を「仮令(たとい)往古は(要法寺の)末寺に候とも数十年の間住僧は勿論万端大石寺にて進退致し仏前の荘厳衣体等迄同寺同派の如く執り行い来り候段は相違無く、既に天明度本末御改の節も大石寺と示談の上本末帳妙縁寺の廉(かど)へ頭書致し候迄にて其れ已来も前々の振合に据へ置き候上は今更に至り取戻し古復いたしたきとの申し分は相立難し」と結論づけた。よって触頭より本末帳から要法寺方は削除すべしと達せられ、帳面は改まったのである。
(富士宗学要集九巻)
             (記・高橋粛道)