不受不施思想と富士五山
 
 織田信長は全国制覇を成し遂げるために各武将を滅ぼし平定を図っていた。また、仏教諸宗も信長にとって邪魔な存在であり、鉄砲の輸入と併せてキリスト教を歓迎し、諸寺を崩壊しようとしていた。元亀二(一五七一)年、叡山は信長の焼き打ちに遭い、根本中堂をはじめすべての堂塔と、文書類を一時に焼尽してしまった。さらに石山本願寺や高野山も攻められ、京都還住後、力を蓄えだした法華宗にも弾圧の目が向けられてきた。

 天正七(一五七九)年五月、浄土宗の霊誉玉念が安土(あずち)に来て法談をした際、法華宗の信者が不審をかけてきたことを契機に、信長は日蓮宗と浄土宗との宗論を命じた。しかし、この宗論は信長が日蓮宗を弾圧しようと画策したもので、日蓮宗の敗北は明らかであった。

 信長は日蓮宗に詫証文を書くことを強要し、書かないなら僧俗を殺害すると脅した。このため日蓮宗は「向後、他宗に対し一切法難(論)をしない」という一文を含んだ起請文を提出して難を逃れたのであった。これを境に日蓮宗は布教としての折伏を放棄し、摂受へ転向せざるをえなくなった。

 信長が明智光秀のために本能寺で殺され、替わって豊臣秀吉が全国を制覇した。秀吉は信長の政策に異なり、キリスト教を禁圧し、仏教を保護した。
 秀吉は京都東山に大仏像を建立し、文禄四(一五九五)年、大仏千僧供養会を行うこととし、各宗へ招請状を出した。つまり、八宗より毎月、各百人の僧侶を請じて先祖の菩提を弔おうとしたのである。
 出仕の順序は、真言、天台、律、禅、浄土、日蓮、遊行、一向で、日蓮宗は九月の出仕を命じられた。そのため京中の諸寺僧が本国寺に集合して出欠を論議した。

 この供養会に出席すれば謗法者の供養を受けることになり、それは宗祖の不受不施の制戒に背くことになる。そこで仏性日奥は欠席を主張し、一如日重は法難への配慮もあってか、国主の布施供養は謗法にならないとして出席を主張した。日蓮宗の大勢は出席に同意し、諸本寺は出席に踏みきった。

 日奥は妙覚寺を退出し丹羽・小泉に隠栖(いんせい)したが、日重を謗法者と断定し、激しく批判した。
 不受とは、宗門の僧は日蓮宗以外の謗法者の布施供養を受けないことであり、不施とは日蓮宗の僧俗が他宗へ布施供養をしないことで、この制戒を犯すことを謗法というのである。
 大仏殿の千僧供養事件は地方寺院まで波及せず、富士には無関係であったが、「唇亡びて歯寒きの感無きに非ず」(堀上人)であった。一方、尊門(要法寺)は洛中に寺院があったため、出欠に論議するところがあった。けれども日躰によれば、時の住持・円智日性は大仏供養に出仕無用の決断を下し、一度も出仕することがなかったという。

 慶長四(一五九九)年十一月十三日、日重らは家康に日奥を訴え、日奥また応戦し、これにより家康は両者を大坂城に召し、対論せしめた。翌年、日奥は対馬に流刑となり、十三年に及ぶ流人生活を送った。これを慶長度の不受不施事件という。

 慶長十三(一六〇八)年、尾張熱田で常楽日経と浄土宗正覚寺・綽道とが宗論を起こした。家康は江戸城に双方を呼び対論させたか、意図的に日経を敗けとし、弟子と共に惨刑に処した。これを慶長法難という。

 このように日蓮宗の綱格たる折伏・不受・宗論が権力者によって否定され、換骨奪胎(かんこつだったい)は一層日蓮宗を軟弱なものにしていった。
 日奥が妙覚寺に帰ると不受派は再び勢力を盛り返し、受・不受の対立は関東にも現れてきた。関東では池上本門寺の長遠日樹を中心に身延の受思想を謗法と糾弾した。

 寛永六(一六二九)年、身延山久遠寺・冨楼耶日暹は日樹らを奉行所へ訴えたので、池上側の日樹・中山日賢と身延側の日暹・日乾・日遠が酒井雅楽頭忠世の館に召され、天海・崇伝・林羅山らを判者として対論させられた。
 その主要な争点は寺領地(寺)子は国主の供養であるか、仁恩であるかの問題であった。
 身延側は寺領は国主の供養であるといい、池上側は供養の施と仁恩の施があり、供養一途には解せないと主張した。その結果、先の家康のお仕置の如く池上日樹らを敗訴とし、流刑に処した。これを身池.対論、または寛永年度の不受不施事件という。
 日奥は妙覚寺で六十六歳の生涯を閉じたが、再び対馬に死後流罪となった。

 この事件の余波は富士五山にも及び、日暹は公儀の権威を背に余刃を富士に向けてきた。再三にわたり富士五山に国主の供養であるとの返答を求めたのである。答者となった重須日賢の書状を見ると五山にも硬軟のあったことが窺(うかが)われるが、大勢は国主の供養と解釈していた。
 その後も幕府の不受不施への弾圧は続けられていった。
 寛文五(一六六五)年、幕府は寺社領を整理して朱印状を再交付した。その際、幕府か与えた寺領地子はすべて国主の供養であるとの手形を提出させた。しかし、仁恩を主張して手形を提出しなかった日述・日堯・日了・日完らは流罪となり、翌年、日講・日浣が流刑となった。これを寛文度の不受不施という。

 不受不施派は寛文九(一六六九)年に寺請(てらうけ)が禁止され、禁制宗門として信仰を奪われ、明治九年まで邪宗門の烙印(らくいん)を押され続けた。
 ところで、富士五山は国主の寺領地子をどう捉(とら)えたか、五山も日蓮宗同様、幕府への対応に苦慮するところがあった。大石・重須・小泉・下条の各師が妙蓮寺に談合を重ね、国主は受、庶民は不受とする見解をまとめた。

 日因上人の写本には
「御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、この段不受不施方の所存とは別格にて御座候、仍って件の如し。
  寛文五年已八月二十一日
             本門寺
             妙蓮寺
             大石寺
 御奉行所          」

とあり、御朱印を供養と考えていたことがわかる。もし大石寺が不受不施を唱え、仁恩と返答したら仏閣は即座に破却され、命脈の存在すらあやぶまれたことであろう。

 参考文献
  『富士宗学要集』 八巻
  影山尭雄 『日蓮教団史概説』
(記・高橋粛道)