天 文 法 乱
 
 天文五(一五三六)年七月、山門の僧兵と六角氏により京の日蓮宗二十一箇寺本山が全焼させられた事件を天文法乱、または天文法難というが、この時、日蓮正宗(富士派)は京洛(きょうらく)に一箇寺も有せず、教線を伸ばしていなかったので被害は皆無であった。

 富士派が京洛に寺院を有するようになったのは、円教坊日体が要法寺を去り、縁故を辿(たど)って大石寺二十四代日永上人の弟子となり元禄十一年十二月十三日、東九条村にあった無本寺、すなわち浄土宗の良円寺を買い取って日大系の住本寺を復興してからで、聖滅四一七年後である。
 しかし、京に中心本山のあった興門系の日尊門流(要法寺・現在の日蓮本宗)は大打撃を受けることとなった。以下、事件の経緯を一見する。

 元弘三(一三三三)年、日目上人は日尊、日郷両師を伴い最後の天奏の途につかれた。それは北条幕府の崩壊により後醍醐天皇か京に還幸され記録所を設置されたからで、日目上人は好機とみて直ちに「園城寺(おんじょうじ)申状」の明確なる答えを求めて上洛された。けれども道中、垂井(たるい)の宿で御遷化されることになった。荼毘の後、日尊、日郷の両師は上人の意志を継いで代奏を果たし、郷師は御遺骨を捧じて人石寺に帰り、尊師は滞洛して弘教に努めたのである。
 翌年、尊師は朝廷より六角油小路に土地を賜り法華堂(のちの上行院・要法寺のおこり)を建て、興門派で最初の帝郁弘教の拠点を築いたのである。
 晩年、日尊は興国五(一三四四)年会津の実成寺から日印(尹)を招いて上行院を授けた。また、一方の雄長・日大は木辻(きつじ)に法華堂を、冷泉西洞院にも法華堂(のちの住本寺)を建立して大いに教線の拡大に努めたのである。

 時代は下って足利政権の弱体化につれ、戦国時代へと突入した。応仁の乱は細川勝元と山名持豊との間にあった争いで、これに諸大名・豪族が加わり、京都は戦乱の舞台となって焦土(しょうど)と化した。治安の荒廃により各地に一揆(いっき)が蜂起(ほうき)することとなり、町衆と呼ばれる人人は武力を蓄えて自衛に努め、寺院もまた、放火や財産の掠奪(りゃくだつ)を防ぐために武力を蓄える必要があった。このような時代の流れに乗り法華宗も武装化へと進んでいた。町衆と日蓮宗僧俗の武力蜂起は法華一揆といわれ、一向一揆を凌(しの)ぐ勢いがあった。

 室町中期ごろになると、日蓮宗は公卿(くぎょう)・武家の間に多くの帰依者を得、寛正六(一四六五)年ごろには京都市民の半分は宗徒であり、毎月、二、三箇寺ずつ寺院が建立され、その繁栄は耳目を驚かすほどであったという。そのため法華宗は驕(おご)り、法華一揆は強大な武力を盾(たて)に他宗寺院を焼き、土地を押領(おうりょう)し、狼籍(ろうぜき)の限りを尽くした。

 民衆は法華宗を非難し、また、細川、佐々木氏等にしても、一向一揆を潰滅(かいめつ)した今、次に法華一揆を潰滅させなければならなかった。諸将の間にも法華宗の勢力を除こうとする動きがあり、旧仏教の山門も法華宗繁栄を嫉視(しっし)し、潰滅の糸口を探っていた。山門は日蓮宗が法華宗と名乗ることは天台法華宗の宗号盗用であるとして、その停止を足利義晴に請うた。これは容認されなかったが、山門を最も激昂(げっこう)させたのは、天文五(一五三六)年三月三日、比叡山延暦寺西塔北尾の華王房と上総(かずさ)茂原妙光寺信徒・松本新左衛門久吉とが問答し、華王房が敗けたという噂が流れた時である。叡山は直ちに六角・佐々木氏等、諸大寺に援兵を求め、数万の兵力を動員して攻め、洛中の日蓮宗二十一箇寺本山はすべて灰燼(かいじん)となった。二十一箇寺とは、妙顕寺、弘経寺、上行院、住本寺、大妙寺、本国寺、妙覚寺、妙満寺、本禅寺、本満寺、宝国寺、立本寺、妙蓮寺、本能寺、本法寺、頂妙寺、妙泉寺、学養寺、本覚寺、妙伝寺、本隆寺である。『祖師伝』によれば七月二十七日に上行院と住本寺は焼失しているようである。

 戦火によって京都は大半が灰燼となり、多くの僧俗が戦死した。それでも山徒の攻撃を受けながら、諸大寺の僧俗は御本尊・聖教をようやく護持して堺の地に逃亡した。
 京都では山徒がしきりに日蓮宗落人(おちうど)を探索し、同年十月、幕府は日蓮宗徒の洛中、洛外の徘徊を禁じ、還俗(げんぞく)し、他宗に紛(まぎ)れ、また隠匿(いんとく)する者は罪科に処し、日蓮宗寺院の再興を禁止するという厳しい禁令三箇条を布告した。そのため、洛中には宗徒の姿を見ることができなかった。

 天文八(一五三九)年九月、堺の法華宗は幕府に京都還住を請うたが拒否された。しかし、各派諸師が有力大名、縁者をつてに復帰を働きかけ、天文十一(一五四二)年十一月十四日、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨(りんじ)を下賜された。同十五年には諸寺が漸次(ざんじ)帰洛し、再興に取りかかった。このうち復興したのは十五箇本寺である。
 時に広蔵日辰は、上行院、住本寺の両寺復興は不可能であり、両山反目不和の基(もとい)となっている両寺を一寺に統合せんと考えていた。天文十七年には両寺より新寺法が承認され、合併する運びとなった。名称を要法寺とし、堀川綾小路に再興が決まった。師・日在は五箇条からなる親書を日辰に送り、両寺一寺を喜ぶとともに注意書を記している。

 二年後の天文十九(一五五〇)年三月十九日、要法寺の再建がなり、日辰は弘治元(一五五五)年、四十八歳の時、初代貫首として迎えられた。
 永禄年間に入り、京都の勝劣派側と一致派側との間に法義上の諍論(じょうろん)が紛紜(ふんうん)と起こり、幕府の意向により両派が和融へと動いた。永禄七(一五六四)年八月二十二日、四条東洞院今村紀伊守泰久の館に十五寺の代僧が集まり、和融の条目が作られ、調印の運びとなった。
 この調印が要法寺にとって悲運をもたらすことになるとは誰一人として予想のつかなかったことであろう。

 一致勝劣都鄙和睦の条目
一、法華経一部八巻二十人品の肝心、上行所伝の南無妙法蓮華経を以て、一味同心広宣流布を祈り奉るべき事。
一、法理既に一統の上は、私曲謗言互に停止せしむべきの事。
一、諸門和談の間、本末衆徒檀那互に誘取すべからざるの事。
 右条々堅く此の旨を守るべし。若し違犯の仁有らば、其の寺として沙汰有るべし。許容に於ては諸寺の儀を以て、申し達すべき者也。仍て末代不易連署件の如し。
 永禄七年甲子八月二十日
  (以下、十五箇本寺役者の連印あるも省略す)

 この両派の和睦の規約は「南無妙法蓮華経を一味同心して弘めること」「互いに自讃毀他しないこと」、「互いに僧俗を誘取しないこと」である。けれども実際には諸山は必ずしも守らなかったため、天正三(一五七五)年に規約は再び確認された。
 
 要法寺は寛政年間にその存存を危くするような大きな事件に巻き込まれるが、その遠因は永禄の規約に始まるのである。寛政法難については後に詳述する予定である。
 参考文献
『日蓮教団全史』上
『本山要法寺』
『住本寺史』
『法灯よみがえる』原日認著
『富士宗学要集』五巻
『日蓮宗』高木豊編
『悠久のいのち法華経』坂輪宣敬著
(記・高橋粛道)