洞の口法難
 
 洞の口法難とは仙台法難の続編ともいうべきものであるが、日如師は本件に関して少しも関与していないようである。

 洞の口法難に関する文献は、加藤了助(浄順)が自らの体験を通して著述した『浄順御沙汰記録』だけであるので、本書を唯一の拠り所としなければならないが、堀上人は「委曲、文に在り、冗長なるが如し」と記しており、要点をもって記したいと思う。

 前号にも記す如く、浄順は賀川家の傭夫(ようふ)を勤め、主人・浄性の家風にしたがって入信していた。仙台法難の際には評定所に召喚されたものの刑罰記に浄順の名が連なっておらず、御沙汰なしであった。一度は御本尊と仏具一式を取り上げられたが、元来、富士の信仰は正法の宗旨であり、内信心はお構いなしであったようで、その後も信心を持続していた。ただ、浄順は賀川家に留まることができず、しばらく住居が定まらなかったが、明和八年九月二十九日、事光庵を建立して道場とした。

『事光道場縁起』には庵について「金銀だにもあるならば七堂伽藍も立つべきにそれは及びのなき事ぞ、心ざしさえ有ならば七堂伽藍に劣るまじ、広宣流布の其時は最初に寺とも成るべきなり、大石寺の仏法を奥州仙台道の口へ御移し申し奉り修理を加え勤行いたす事ならば即理の道場と申すべし、事理不二の事なれば事光円と名付け奉る」(取意)と記している。

 一度消えかけたかと思われた法灯も淳信(じゅんしん)の徒によって少人数であるが伝流されていった。仙台法難後、藩は厳しく富士の信仰を取り締まる様子もなかったが、浄順は法難後のことでもあり、表だった布教を自粛し、手紙による日如師の指導を受けつつ信心に精励していた。
 しかし、いつ弾圧の嵐が吹き荒れるか油断はできなかった。入信後約四十年を経過した文化元年に弾圧の兆(きざ)しが見えてきた。同年四月、東光寺から五人組をもって太鼓を打つ理由を尋ねてきたので、浄順は明和二年から仏具と思い今日まで打っていると書状にて回答したが、七月末まで何の沙汰もなかった。けれども、最近、倅(せがれ)・甚六は再三にわたり御制禁ゆえ信心をやめるように言い渡されていた。従前はお講を修するため多人数が寄り合うことも黙認していたが、今回は村方が富士の信仰をやめ、道場を片付けるように強く言ってきたので、浄順は已(や)む無く太鼓を打つこととお講を中止した。ただ御大会の法要は休止できなかったので同志が集まり御供養を申し上げた。

 十一月二十日、東光寺と肝入から達書があり、十二月二十日、塩釜会所に呼び出され、大肝入と代官の詮議を受けた。その後、翌年の二月まで何の沙汰もなかったが、同月七日、御会所に呼び出され、大肝入・手代どもから道場を壊すように言われた。また、八日、五人組頭・組合等から同様に取り払うように言われたが、浄順は承知せず口書をもって対抗した。それより田植え時期を経(へ)、五月二十九日、郡奉行・石川伝吉の召喚状により、国分町菊地屋平三郎宅か町宿となり本格的な取り調べが始まろうとしていた。六月二日、奉行の詮議が始まり、道場を取り壊すように申し渡されたが、浄順はきっぱり「できません」と断った。それは申し開きを評定所でと思っていたためであったが、奉行は評定所での審議を省略して即刻、入牢と決定した。
 牢舎は極めて粗末なもので、板の間に筵(むしろ)七枚敷に十五人が同居し、夏の時期であったので雪隠(せっちん)の臭穢(しゅうえ)がひどく平常は口と鼻を蔽(おお)い、蚤、虱(しらみ)、蚊に悩まされる日々であった。一ヵ月辛抱していると牢替えとなった。ここは八畳敷で外に縁側があり、明るく、臭穢もなく、三人の同居であった。日中は一万遍のお題目を唱えた。

 間もなくして浄順に放免される好機が到来した。郡奉行・石川伝吉が江戸替えとなったため、その跡役に高成田要七が就任した。この人は十年来、記録を勤めた人で、温厚な性格のようであった。七月二十四日、新奉行・高成田は浄順を屋敷に呼び、入牢までの経緯を述べさせた。奉行は思慮し、それではと御本尊と仏具を道場から居宅に移すように指示したのであった。
 浄順としても、信心の妨げにはならないと思い、どうしようもなくこれを認めたので即刻、放免となった。藩としては道場に遠国・他国の者が参集して騒動を起こすことを最も警戒したのであって、個人の信仰をとやかく言うつもりはなかった。高成田が大石寺の信仰に村し「邪法でなく正法である故、内信心の儀はお構いなし」と言うように、布教などせず個人の信心にとどまるなら、従来どおり富士の信仰を続けるのに問題はなかった。

 帰宅を許された浄順は喜びをもって妻子と対面した。御報恩の勤行を済ませた後、すぐに仏具を居宅に移し終え、大肝入・手代等の監視を受けつつ道場の改造に着手せざるを得なかった。
 そうこうするうち九月末になり、御大会を間近に控えていながら支度もできず心を痛めていると、総本山から郷土出身の御隠尊・日相上人が下仙していることを知った。日相上人は足を運んで浄順にお会いになり、法難の労をねぎらうと共に、数日後、再び浄順宅に訪れ甚深の御説法をされたのである。浄順はそのことを「夜半時分までの御説法にて誠に臨終近き頃に未曽有の御法門等いながら聴聞し奉る事冥加至極」と喜悦している。

 御沙汰記録には浄順の二度目の入牢の理由についてははっきりと記していないが、浄順は禁止されていた講寄り合いを犯したこともあり、お咎(とが)めをある程度覚悟していたようで、十一月十日、大肝入が書面をもって倅・甚六と共に押込を申し渡した。放免の理由も全く明らかでないが、甚六は十一月二十日に、浄順は十二月二日に赦免された。
 仙台法難では連帯責任を負わされた肝入等はそれに懲(こ)りてか、積極的に富士の信者を監視し、藩はそれを受けて取り締まりに動いたようである。けれども、伊達藩内には既に仏眼寺等の正宗寺院が存在し、公認の宗派であったので、日如師の一件は別として、刑は軽く済んだ。洞の口法難に関しては、藩内に寺院を持たない金沢信徒が受けた法難とは様相が異なっているのである。      (富士宗学要集九巻)
            (記・高橋粛道)