仙台法難
 
 陸奥(みちのく)には奥四箇寺といわれる古刹、名刹寺院が宗門上古に建立されていて時折、本山から御巡教があった。宝暦九年(一七五九)の春、学頭・守要院(後の日真上人)は奥州末寺に巡教され、その折、山川平兵衛(三代目伊勢屋)の三男(十二歳・後の日厳上人)の得度を許された。また、同じ砌に賀川権八という強信の人が「懐妊の子がもし男子なら出家させたい」と願い出たので、守要院は男子なら弟子にすると約束した。権八は来る日も来る日も男子出生を祈念し、見事その妻が男子を産んだ。これが後の日相上人となるのであるが、早速このことが本山の守要院の耳に達した。
 六年後の明和元年(一七六四)の春、守要院の弟子である覚休日如が二十五歳の時、仙台に下向した。その目的を『事光道場縁起』には兄弟弟子の縁で「御法門御伝授」のためと記し、六歳の稚児(ちご)に法門を伝授するためとしているが、法門伝授にしては相師が幼少すぎるようで、むしろ両親も含め出家の心構え、勤行、簡単な仏教手解(てほど)き等の指導が目的であったろう。
 ところで日如師は元文五年(一七四〇)磐城黒須野に生まれ、同郷出身の日因上人と日真上人を師僧と仰ぎ、幼少にして本山に出家された。その後、勝劣派共同経営の細草談林に入林し、「文句部に近付し」とき途中で退林している。退林の理由として「日真上人より下仙の命を受けた」とも考えられるが、何よりも一番の理由は日如師が実践の人であったからであろう。檀林の制定は、一つには天文法乱を契機に自讃毀他を禁止する目的で幕府の意向によってつくられ、天台学を研鑚することにあった。天台学といえば煩瑣(はんさ)な学問で、一通りマスターするにも二、三十年の歳月を要した。もちろん細草談林の制定により日寛上人のような偉大な御法主が誕生したことや、讃岐・保田・西山・妙蓮寺・要法寺等に大石寺の教義が多大な影響を与え、末寺・本山の独立、合同等が行われたのを見るにつけ、重大なものである。けれども折伏実践の僧侶からすれば檀林は批判されたことも事実であろう。菅野慈俊師は「この処での学問勉強と云うものは、多く古い書物の文字を勉強し、其の上一般の人々に仏法の正しい信仰を与え人々を導くと云う精神からわす
っかりかけ離れて、……覚林日如は、談林勉強を中途で止めて仙台下向になった」(仙台法難二一一)と記しているが、法難をものともせず実践に明け暮れた雄姿をみるにつれ、日如師の退休の理由はこの辺にあると考えられる。
 僧侶は大きく三つに分類されると思う。一つは学問の人、二つは布教の人、三つは経営の人である(経営というと読者のなかには不審を抱かれる人もいるかと思うが、仏前荘厳、寺域拡大などの寺運興隆に特に手腕を発揮することである)。この三つが円満具足するのが理想であるが、日如師は布教行動の人であった。したがって日如師の下向目的は、一つには真師の命による相師の後見にあったが、主意は奥州弘教にあったと想像されるのである。
 さて、賀川権八(浄性)は以前からこの地に富士派の寺院建立を念願していた。折よく出羽家最上氏の一族で天童家の家老・富沢惣右衛門、中川三郎左衛門、同助右衛門が内々富士派に帰依していたので相談を持ち掛け、さらにこの三家老が主人備後守にこの旨を述べると主人はよく理解を示し、八幡村下屋敷(現在の八幡町)にある空地を提供してくれた。すぐさま権八は庵室の建立に着手し、日如師を請待して東有台と名付けた。小庵の完成により一段と布教に熱が入り、主人天童備後も帰依するようになり、城下に富士派は有り難い宗派であるという噂が流れた。さらに俗弟子となった者のなかには大聖人の仏法を講釈できるまでに成長した者もおり、仙台広布に明るい兆が見えてきた。賀川家の傭夫(ようふ)である加藤了助(浄順)は主人賀川家の風儀に従って入信を決意し、両親を入信させた。縁起には日如師来仙以来一年も経ない明和二年一月中旬までに四、五軒の信者が出来たと記している。
 小庵では毎月十三日に日如師がお講を奉修し、信徒は依止の道場として修行に励んだのである。
 布教も徐々にではあるが実を結んできており、東有台は仮の庵室で粗末な上、狭小であり、後々のことを考慮して浄性は寺院建設を思い立った。けれども新寺建立は禁止されていたので廃寺復興という名目で建立することにした。上行寺の近くに加賀野という所があり、ここに第四世日道上人の開基による本道寺が建立されていたが、いつの頃か廃寺になっていたので、妙教寺日然、上行寺と談合し本道寺を復興する計画を立てた。このことを天童備後にも相談し、役人にも内々話したが特に問題は起こらなかった。寺院が完成するまで日如師は一時、東有台から妙教寺塔中の東陽坊に入ることになった。
 だが「行解已(すで)に勤めぬれば三障四魔競い起こる」の御金言どおり、明和二年三月七日、岩切村百姓甚六、市郎兵衛、次三郎が召捕(めしと)られ、同夜、山川平兵衛宅で勤行中の日如師が突然詮議を受け、翌日、入牢させられた。また浄性、中沢三郎右衛門も直ちに入牢となり、他に仏眼寺、日浄寺、妙教寺、浄順の檀那寺たる東光寺、浄性の檀那寺たる慈雲寺、岩切村肝入(きもいり)伊右衛門、南宮村肝入兵四郎、賀川家一族等が評定所に召し出された。
 信徒は入牢して数箇月を経過したが、数度の詮議にもかかわらず容体、顔色もよく、飯に紙を押し合わせた数珠を造り、たとえ身命に及ぶとも息の通わんうちは口唱するとて唱題に励んで苦難に耐えたのであった。
 法難の知らせを受けた日真上人は七月三日、学頭遠妙院(後の日穏上人)を仙台に派遣し、一連の事件の掌握と法難者の救済に当たらせた。遠妙院は二十余日、日浄寺に逗留(とうりゅう)し奉行者との折衝に動いた。この間、直接奉行所に赴き法難者に法を説いて激励し、役人に対しては日如師が大石寺日因上人の弟子であることや、石高が六十六石余で六代将軍家宣公の夫人・天英院を檀那とする格式高い寺院であること等を説明し、入牢者全員の解放を懇請した。しかし、役人が大石寺の格式を聞いて驚く場面もあったであろうが、なにせ江戸より遠隔の地であってか事態は好転しなかった。遠妙院は思案を回らし一計を案じようとしていたが、折しも七月二十六日、日真上人が御遷化されたので、八月下旬「帰山すべし」との書状が本山より到来した。沙汰の安否を見届けずに帰山することを残念に思いつつも御跡継ぎのことがあるので直ちに帰国せざるを得なかった。代わりに本山から孝真院孝察日善師が派遣されたが、それは法難より三年後のことで、藩は遠妙院帰国後間もない九月十二日、強引に一挙に裁断を下した。この知らせを受けた日因上人は「目邪なる人は直なる木をも曲木と見るべし」と慨嘆されたという。各人の罪状は次のとおりである。
 覚林 罪状は権八の所に長く住し、家老富沢惣右衛門の親類と偽り備後の在所に庵を結び、続いて妙教寺塔中に入り、その後も備後の在所に居住したことを不都合とし、さらに権八の養父が祀(まつ)っていた伊勢の祓宮等を焼き捨てさせ、神酒造り方御用を勤めながら塩釜神社祓忌令に反し鹿肉を食してもよいと指導したことや、証拠は明らかでないが奇妙な教えを説いたことなどから民俗を迷わし、国法に背いた罪は軽くないとして近流となった。
 妙教寺日然 覚林が不法に居住していることと、邪法に均(ひと)しき法を説いているのを知りながら監督しないのは、一山の住職として不届きであり蟄居となった。
 慈雲寺正禅 文蔵所持の御影と曼荼羅を取り上げておきながら御糺明に及んでも申し出ないのは不届きであるとして慎居となった。
 天童備後 権八から相続の用事のため用立金を援助してもらうことになっていたので権八に便宜を計ったこと。永く覚林を在所に逗留(とうりゅう)させる理由がないこと。また邪法に均しき教えを説き愚民に帰依を勧めているのを知り、覚林を信じ母妻共に帰依したことは不都合であること。さらに覚林を役人が召し捕りに向かったというのは実事でないが、その場合取り逃がさないように指図すべきを、在所を立ち退(の)くように言ったこと。国法を重んじない振る舞いは家柄といい、重き役目を受けながら重々不届き不礼であるとして役目を除かれ閉門となった。
 家老庄子治兵衛・佐藤七兵衛 永く在家に逗留できないので中沢と語らい、備後に働きかけ、富沢の親類と偽って主人の在所に指し置いたこと。また召し捕りの儀は実事でないが覚林を立ち去るように言ったこと。覚林が主人に勧めた法を吟味せず、さらに法そのものを弁えなかったこと。家柄の家老として、また不届き至極によって役目召し放ち、蟄居となった。
 家老富沢惣右衛門 覚林を在所に指し置き、法を吟味せず、主人の落ち度を弁えなかったことは、家柄の家老として不届き至極であり役自召し放ち、閉門となった。
 中沢三郎右衛門 覚林を主人の在所に置き、さらに俗家より塔頭に移転したのを吟味しなかったこと。覚林の立ち去ることに同意したこと。権之助の詑状一件にも加わり、覚林に加担し、覚林の説く奇瑞に同意したこと。また覚林をあつく主人へ扱置き、主人のためを思わず糺明にかれこれ弁解して覚林に与(くみ)したことは家柄の家老として不都合で、他国追放となった。
 家老草刈伊左衛門と親類ども 罪状もあり不届き至極であり、解役蟄居以上の刑に処せられるところであったろうが、本人死亡のためお構いなしとなった。また親類達への裁きも全く記されてない。
 賀川権八 養父の教訓を用いないのは不順の至りで、養父が前々より一宮酒造り方をしているのを中止させ、さらに天照大神の祓守札等を焼捨し、神威を恐れず鹿を煮、自身はもちろん家の者にも食べさせた。また覚林の奇妙な話を信じ、親類どもに帰依を勧め、覚林に加担しているのは重料であるが、前非を悔い白状に付き、宥免をもって域下ならびに三郡(宮城郡・名耶郡・黒川郡)追放となった。
 佐藤長右衛門 誤ちを犯している権八に確(しか)と注意を与えないのは不届きであるとして押込(監禁)となった。
 倉本久兵衛 権八を再三教導すべきをなおざりにしたのは不届き至極であるとして押込となった。
 権之丞 一度入信するが日如師が捕縛される以前に退転す。権八に注意を与えなかったのは不届きであるとして押込となった。
 権之助 当初は信仰していたが覚林師に神酒造り方を止めるように指導されてから退転す。罪状は権八に異見を加えてはいるが、覚林を四月から六月まで止宿させ、さらに信心中、権八が伊勢の祓を焼捨したのを強く制止せず、鹿肉を食し神酒御用を勤めたことは不届き至極であるとして、城下ならびに二郡追放にすべきであるが、白状したため軽減されて戸詰となった。
 文蔵 一度入信するが檀那寺慈雲寺の正禅により覚林師捕縛以前に退転す。覚林の怪しき教えを聞きながら申し出ないのは不届きであるとしながらも処罰はなく訓誡のみであった。
 服部屋五郎兵衛 覚林が天童備後在所を立ち去る時に難題を申し掛け、家老中沢等と共に権之助等から詑状を取っているが、覚林に加担しているのは不届き至極であるとして一年奴となった。
 山川平兵衛 覚林が八幡を立ち退く時自宅に止宿させているが、加担は紛(まぎ)れなく不届き至極であるとして一年奴となった。
 甚六・市郎兵衛・次三郎 覚林の邪法まがしき教えを聞いたことがないというのは不都合第一であり、市郎兵衛は覚林が八幡を出る時に仏書を預かり、また止宿させている。さらに三人は檀郡寺の本尊や守札等を焼捨しているが、すべて覚林の教えに服して信心するのは不届き至極であるとして一年奴となった。
 義兵衛 賀川屋源五郎宅に借家して信心をしていた人で、中沢等と共に権之助から詑状を取った。覚林に加担したとして一年奴となった。
 菅野屋吉兵衛 義兵衛の所持する覚林の説法聞書を隠し、また彼を匿(かくま)ったようなので不届きであるとして押込となった。 兵四郎・伊右衛門 兵四郎は南宮村肝入(肝入とは名主または庄屋のこと)、伊右衛門は岩切村々役肝入の職にあった。村の者が覚林に帰依しているのを知りながら肝入として報告しないのは不届きであるとして訓誡となった。
 旧来の仙台法難に関する論文では罪状を省略したものが多かったので、冗長の謗りは免れないが、ここではできるだけ詳しく記した。右を要約すると左の如くである。

僧分
 覚林 近流
 日然 蟄居
 正禅 憤居
権八とその一族
 権八 城下・三郡追放 入信
 長右衛門 実弟 おしこめ 入信
 久兵衛 実兄 おしこめ 不明
 権之丞 おじ おしこめ 退転
 権之助 父  戸詰   退転
 文蔵     訓誡   退転
武家分
 天童備後 除役閉門 入信
 中沢三郎左衛門 他国追放 入信
 富沢惣右衛門 解役閉門 退転
 庄子治兵衛 解役蟄居
 佐藤七兵衛 解役蟄居
 草刈伊左衛門 死亡 お構いなし
信徒分
 服部屋五郎兵衛 一年奴
 山川平兵衛 一年奴
 市郎兵衛 一年奴
 甚六 一年奴
 次三郎 一年奴
 義兵衛 一年奴
 菅野屋吉兵衛 おしこめ
肝入
 兵四郎 訓誡
 伊右衛門 訓誡
 仙台藩は直接に関係ない正禅や肝入を処罰し、さらに退転者も一連と見ているところを見ると連帯責任を負わせている。これは江戸時代の処罰のパターンのようで、これにより互いに警戒に当たらせる効果をねらったのである。
 天童家は知行高千三百四十七石を有した中程度の大名であったが、既述した如く主人備後守は国法に触れ、日如師に加担した罪とで役目を除かれ取り潰しとなった。五人の家老も解役、他国追放などの重刑を受けることになった。
 日如師も近流と決定したが、罪状は数項目からなるも、法義上からは次の三点に要約できると思う。一には伊勢・天照大神の祓守札を焼捨させた。二には鹿肉を食べるのを勧めた(つまり神酒造り方をやめるように指示)。三には奇妙な説法をしたことである。三について少し説明すると、日如師は祈祷(きとう)により願が成就すれば宗祖の木像の眼が開き、成就しないときは眼を閉じ、また、お供の造花の蓮の花が開く場合は心願成就の瑞祥であると説いたというのである。藩士の目にはこれらの言動が「邪法に均(ひと)しきをいい」「民俗を迷はし害(そこな)い」「怪異な言を以って」「怪敷の言を以って」等と記すように、民衆を迷わす邪法を説く僧と映ったようである。『仙台人名大辞典』に日如師を「破戒僧」と記録しているのは鹿肉という殺生のことだけでなく、この辺を含めて指したのであろう。
 しかし、日如師は本当に三番目の奇瑞を布教の主点に置いたであろうか。これが法難のキーポイントの一つであったと思う。処罰者のなかには木像と造花の件を聞かないと主張した者と、聞いたと述べる者もいたが、聞いた人間がいることは藩にとって好都合の材料を得たことになるが、覚林師の罪状には「その余程の奇妙の教これある由(よし)分明ならず」と記しており、藩は確たる証拠をつかんだわけでもなく、また覚林師自身否定しているところを見ると強引に罪状を付与された感もしないではない。「火のない所に煙がたたず」という観点からすれば弘教手段としてある程度の譲歩はあったかもしれないが、むしろなにがなんでも処罰するという藩の方針が強硬に推進されたために、あらぬ方向に自白が強要されたのではあるまいか。後の本山三十五世日穏上人の四月五日状に覚林師の布教について「覚林事柄、其の数にあらざる小僧なれども先(まず)此の度本因妙法を弘通せんが為に一期を蒙りたる事後代に尤(もっと)も冥加至極なる者なり、ただし弘法のすじいまだ不学の所化なれば元祖の御内証に叶(かな)わざる筋もやあらんと粗(ほぼ)これを尋問するに敢(あえ)て私なく見聞に及びし所、相(あい)違背せざるの法門弘通のよしこれを聞く」と記している。
 さりとて第三番目の件が藩の押し付けであろうがなかろうが、宗教統制の時代に正法正義を掲げれば法難を回避することは困難であった。日如師は近流と決定したが、遠妙院の申し立てなどにより富士派は公認の宗派とわかって、遠流に対して軽罪の近流となったと思われる。近流は「仙台藩評定所格式次第」や「仙台藩賞罰例」をみると軽罰に属するが、僧侶と悪人とは同列に考えられないし、軽罪といっても流罪であり、さらに二十七年という年月を考え合わせると一口に軽罪とはいい得ないものがある。やはり軽罪とは表面上のことで、実際は内容といい重罪というべきものであろう。
 仙台湾に浮かぶ網地島(あじしま)への流罪となった日如師は二十六歳の青年僧で、明和二年九月十日四ツ時(午前十時)に牢を出、裸馬に乗せられ流罪地に向かった。その時馬上で
 みちのくに久遠をうつす後の月
という句を詠んだ。
 その日は高城(今の石巻市付近)に泊り、翌日牡鹿(おじか)半島の渡波(わたのは)にとどまり明けて十二日長渡真崎の浜に着いた。随身の信者は涙を流して別れを惜しんだ。
 島に着いた日如師は根組と呼ばれる所に埴生(はにゅう)の小屋を建て住居とした。師は流人となりながらも法難を享受し、信心に、布教に少しの停滞もあるはずがなかった。幸いに身体の拘束はほとんどなく比較的自由に行動を起こすことができたので、島民や流人を相手に折伏をはじめていった。やがて網地島肝入の阿部喜惣右衛門、利喜蔵兄弟が入信した。日如師の在島中の島民に対する資料が無いので信徒の活動規模など明らかでないが、二十七年という年月を鑑みても、また師の力量からしても漁民などの土着人や流人の多くが入信したであろうことは想像に難くない。
 さらに日如師は島民だけでなく、遠く仙台洞の口講中や妙教寺檀中等にも書簡によって信心指導していることが現存する消息文から窺(うかが)うことができる。
信徒のなかには御供養を携え、安否を気づかって無事を確認する人や指導を受けに渡海する人もいた。
 日如師の信念・人格は書状のなかに沸々とあらわれている。まず書状のなかに「昨夜も自我偈二百返不眠にて」とあるが、信徒の信行倍増広宣流布を常に祈りつづけていた。また流人生活にも満足され「一銭の貯これ無く候へども不自由と存候事曽て以てこれ無く候」と記し些(いささ)かの不満も漏らされなかった。そして登山については「未登山輩は老少によらず随分取立候て年々に御登山の願望成就はたさせ申すべき事、登山の面々より其の方の功徳広大に候。島へ渡り候金銭を以て少し(で)も余慶に役立たせ候事、何人登山とても島へは渡海は無用に候、只書通を以て申入らるべく候」とて、登山しない者を勧めて登山させればその功徳は登山者にまさり、島に渡って自分を見舞う金銭があるなら、それをもって登山の費用に役立たせなさいと述べている。他にも珠玉の輝きを持った指導があるが、堀上人はその書状に村し「何れも書状によりても遠隔の地にある信徒を誘導し激励する熱烈と周到と醇信とを兼ね備えたるものにて、自身流謫の苦辛は文上に顕われおらず法悦に浸りたる羨(うらやま)しき心境裡である」といい、洞の口事光堂に御本仏大聖人御影を安置したのを聞いて「其の奉仕の心境所作細大と無き教訓仲々凡僧の及ぶ所にあらざるなり」と感嘆されている。
 法難後、明和五年に学頭孝真院とその後に日穏上人が下向して救護に当られたが、救済できず、いたずらに二十七年の歳月が流れた。
 しかし、冬は必ず春となるの御金言どおり、寛政三年四月二十二日、ようやく赦免になった。日如師五十二歳の時である。赦免の理由は伊達氏八代斉村が左近衛小将兼陸奥守に任じられた恩赦によるものである。早速妙教寺檀徒数人が朗報を携えて日如師を受け取りに参じ、互いに喜びの涙を流しての再会であった。思えば二十七年とは随分永い年月であった。
 赦免後、日如師は利喜蔵等がお供し江戸小梅常泉寺に足を運んだ。時の住持要順院は山川平兵衛の子息であり、平兵衛とは共に布教し受難した深い間柄があったので立ち寄ったのであろう。旅の疲れを取り十日程逗留した後、日任上人の御代替わりの佳節(近年まで御代替わりはお虫私法要時に奉修)に登山し、新法主にお目通りをし、無事帰国の報告などをした。二十七年ぶりに本山の地を踏み、大御本尊にお目通りした日如師の心中は察するに余りある。感慨無量のものがあったであろう。つづいて三祖の墓前に香華を供え、また師匠、日因・日真両上人の墓前へ帰国の報告をしたのであった。暫くの逗留の後、本山より二、三幅の御本尊を頂戴して下山し、その足で大杉山有明寺に参詣し、その折、御影を戴いて東海道を上り陸奥へ向かった。日如師は生まれ故郷の黒須野にある妙法寺二十二代の住職として迎えられた。
 仙台方面の布教は従前どおりにはできなかったが、手紙等での指導は続けられたようである。
 死期が近いと悟られてか文化九年、日如師は渡島して利喜蔵に要声堂を譲り、翌文化十年十月二十四日、洞の口事光道場で七十四歳の波乱に満ちた生涯を静かに閉じた。遺骨は妙教寺に葬られたのである。
 生涯を広宣流布にささげた日如師は初めて堀上人によって人々の知るところとなり、昭和三十三年八月二日、日淳上人から上人号がおくられた。
 和合阿闍梨頂受妨日如贈上人
(富士宗学要集九巻)
(高橋粛遣)