讃岐法難
 
 徳川家康の寺院法度制定の時期は関ケ原以降のことで、慶長六年(一六〇一)から元和元年(一六一五)まで続いた。この寺院法度の意図するものは本末制度をいかに強化するかということであった。天台宗を例に取ると
 本寺に伺わずして、ほしいままに住持すべからざること(関東天台宗法度)
 諸末寺本寺の命に背くべからざること(同)
 諸末寺は当本寺の法度に違背すべからざること(千妙寺法度)
などがあり、他の真言宗、曹洞宗、臨済宗、浄土宗、そして少し遅れて一向宗、日蓮宗も同じく本末の関係を強化させられた。
 幕府はこの本末制度により、本山が末寺を支配し、幕府が本山を完全に掌握するという形で仏教寺院を幕藩体制下に組み入れることに成功した。
 さらに寛永九年(一六三二)から十年にかけて幕府の手によって寛永の本末帳が作られ、寺格の高下が決定された。
 このような時代背景のなかで、幕府の意に添う形で、北山本門寺は讃岐本門寺を自山の末寺にしようと画策するのであった。
 北山が高瀬大坊(讃岐本門寺)を支配下に置こうとした目的の一つは教線の拡大であり、一つには金品の潤沢(じゅんたく)を図ることであったろう。
 本願寺の場合、本末制度を利用し、制度を金子収奪の手段とし、万余の末寺に仏像、寺格、法名、経典等を売りつけ、巨万の富を蓄えたことが「申物帳」にみられる。
 ここでちょっと述べておきたいのは、本宗の本末関係は他宗と趣きを異にすることである。他宗は江戸時代に本末関係を強化されたが、当宗はそれより早く、御開山当時から始まる。けれども大石寺は大御本尊在(ましま)す本寺、血脈付法の法主上人在す霊場の故に本末関係が存在するのであり、けっして他宗のように単に祖師の開闢(かいびゃく)した本山だからとか、制度上とか、財力によって本末関係が存在するのではない。寺院の住職は本山住職の代理であり、信仰上から本末が成り立っているのである。
 讃岐の地も江戸時代になると四海が平定され、遥か彼の地から富士に参詣する人々も現れ出した。
 慶長十七年(一六一二)に讃岐本門寺(法華寺)十四代大弐日円師が日興上人の正墓のある北山に参詣した。讃岐は塔頭(たっちゅう)八ヵ坊と末寺二ヵ寺を有するだけの小教団であったので、自山内で本末関係を有せず、大坊は無本寺となっていた。北山がこの富士参詣の好機を逸するはずはなく、日円師を厚遇し本門寺十一代日健は「法華寺久遠院日円上人」という補任の本尊を授与して本末関係の証拠づくりに成功した。日円師を「本門寺久遠院」といわず「法華寺久遠院」と記すところにその奸策(かんさく)を知ることができる。日円師が北山の陰謀を知らず、誤って補任の本尊を受けたことが本末関係を決定づける大きな要素となり、讃岐にとって不利な状態になっていった。
 同年、法華寺僧の登山に気をよくした日健は、徐々に法華寺を支配するために「富士の作法」を知ってもらうためとして円心坊を遣(つか)わしている。
 その後約三十年間は両山にみるべき文献は見当たらないが、北山が密(ひそ)かに策動していたことは想像に難くなく、正保三年(一六四六)になると隠居寺院を使僧の礼信坊に渡すよう指示している。
 同年五月二十日、高瀬大坊一山の統制の弛緩(しかん)するのを突いて、北山は「我等の末寺」であると一方的に通告してきた。その理由は先の日円師の一件と、前年の正保二年に法華寺僧に寺号と阿闍梨号を免許したことであるが、さらに現存しないが北山は数項目からなる理由書を突き付けて讃岐が末寺であると言ってきた。
 これに対し讃岐十六代日教師は自山が北山の末寺でないことを詳しく反論して対抗した。長文なのでそのうちの本門寺の名称に関する項目だけを紹介する。

 「書状の宛名が『下高瀬村法華寺』となっているが、当山の高永山本門寺の山号、寺号は開山日仙上人の命名で、その名を改めることはできない。かりに日円が本門寺を法華寺に改転したいと懇望したとしても、貴寺がそれを承引して寺号を改めれば開山上人を軽蔑したことになる。日円は僧俗に対し法華寺と申したことは一度もなく、御本尊や書札等にも本門寺と書いている。同名寺院では不都合と思っているようだが、一門徒のうちに同名のあることは珍しくなく、重須本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、房州久遠寺等がそうである。高永山本門寺は開山上人の付けた名で四百年になり、どのようなことがあっても未来永々まで寺号を改転する気持ちはない」。

 北山の高圧的な言動に伏するどころか、かえって正理をもって反駁(はんばく)せられたために、北山は遂に江戸表寺社奉行所に出訴した。時の奉行は松平出雲守勝隆と安藤右京之進重長で、正保四年(一六四七)のことであった。出訴の理由は次の三点である。
 一、享保二年の春、法華寺僧三人が本門寺に参詣の折、そのうちの一人に阿闍梨号を授与したところ、帰国後、秀山(日数)は阿闍梨号を不座した。また同年春まで末寺に紛(まぎ)れない状を差し出している。
 二、秀山は大聖人、日興上人、日仙上人自筆の本尊、日蓮上人夢の御影(みえい)等の重宝を僧俗に拝見させない上、法華寺は末寺でないと言っている。
 三、秀山は前住・久遠院日乗の買い置いた田地、瓦を売り、御法度(ごはっと)の竹木まで切り取り、商売している。このままでは法華寺は大破してしまうので評定所へ召喚してほしい。

 要約すれば日優の訴えは個人攻撃と末寺の認知である。
 三月五日、北山からの目安(めやす)を受理した奉行は、日教師宛に三月中に必ず参府して対決を遂げるように命じた。そして北山日優のほうは高瀬の領主・山崎甲斐守の家臣に書を送り、法華寺の出府を促すよう依頼した。
 一方、寺社奉行の召喚状を受理した日教師は前の三点について駆け引きなしの弁明書を本門寺に送った。
 1、上坊は古来より本延寺という寺号があるのに浄円寺と改めたり、また中坊は古来より上座という規則があるのに重須から阿闍梨号を受けたということで、上座に居す謂(いわ)れがない。別寺を建て浄円寺と名乗ればよいと言ったところ、逐電(ちくでん)した。
 2、材木、瓦、竹木の儀は潔白である。
 3、大聖人御自筆の曼荼羅と夢の御影は寺の什物でなく檀那方の本尊である。先住の預かり状に先代生駒壱岐守の御裏判がある。
 4、私寺本門寺を末寺といわれとに対しては直接奉行所で申し上げる。

 これより四日前、高瀬より領主の了解を得る必要を感じ、山崎領主に十二項からなる陳情書を送った。その二、三を示すと
 1、享保二年、寺家僧が富士へ参詣した折、重須を本寺とも、また重須
の末寺とも言っていない。
 2、日興上人の御弟子六人のうち、日仙上人は西国三十三ヵ国の導師といわれるのに、讃岐の寺ばかり重須の末寺というのは納得できない。そのわけは日仙上人の兄弟弟子の京の要法寺、富士の久遠寺、西山本門寺上野大石寺は重須の末寺でない。
 3、高瀬本門寺の什物は、正月、七月、十月中掛け置くので、衆檀が拝見できないというのは偽りである。

 正保四年十月、遠隔の地にある小本山のため出府の準備が容易にできず、寺社奉行より日教師へ出府の督促状が来た。また、七月九日にも奉行所より最後の厳達が来た。

 富士山本門寺目安差し上げ候に付き裏判出し候、遅参の故重ねて召状遣はし候処今に不参不届に候、来る八月九日以前什物等紛失無き様に早々持参致し急度対決を遂ぐべく候、此の上遅参に於ては理非を論ぜず大法の如く追放申し付くべき者なり。
(正保四)七月九日
     出雲在り判 右京在り判

 再度の厳達であったが病気のため出府が覚束(おぼつか)ないので、七月二十八日、まず領主に願い置くほうがよいとして明細状を呈し、また十一月には奉行所へは病気のため出府できないことをお詫びし、日優の目安について一々抗弁した状を呈した。
 さらに慶安元年(一六四八)に奉行所へ書を送り訴答したが、そのなかに西の坊、上の坊、泉要坊、林徳が北山本門寺に深く侵入した事情を暴露した。特に西の坊の場合、先住日乗師の肉甥(おい)に当たり、西の坊を法華寺の後継者にしたい意向であったが、秋山宗家(そうけ)四郎兵衛等との契約により日教師に特権が与、えられていたため西の坊は思いどおりにならず、重須と強く結託して策動したのであった。
 その後、日優、日教師は証拠の品々を持参し、奉行所へ出頭して対論を遂げ、いよいよ出雲、右京両奉行から慶安元年十二月十一日に判決書が出た。その判決は、日教師の陳弁は一つとして採用されず、わずかに北山本門寺の末寺として他の末寺に優れた位置に存することと、開山日仙上人以来の旧式を保持することを得たことであった。
判決文の要点を示すと
一、法華寺が本門寺の末寺であることは紛れないことである。
一、古来の寺号を削り新たに寺号を付すことは失義の基であり、本寺の誤りである。自今以後は旧号を改めて新号を授けてはならない(これは上坊の本延寺を浄円寺と改めたことに対する注意であって、本門寺を法華寺に改称したことに対してではない)。
一、法華寺住持秀山が本寺に対し論訴を企てたことは本来追放に処すべきであるが、秀山に全く道理がないわけでなく本寺にも小過があるから、追放を免じて法華寺に安住せしむる。
これによって秀山が追放した寺家僧の帰寺を許す。
一、法華寺は西国三十ヵ国の頭領たる旨を日興上人が定めた状を本門寺は伝えているのであり、本門寺は法華寺が諸末寺に勝れていることは知っているのであるから、本門寺は能(よ)く法華寺の寺法を守り、法華寺もまた本門寺の下知に随うこと。
一、日蓮聖人の曼荼羅と夢の御影は、秋山泰忠(やすただ)より六郎兵衛に至るまで十一代相伝して六郎兵衛が法華寺に預けたものであるから、六郎兵衛が請け取るべきである。

 以上の五点が決定した。法華寺にすれば予想だにもしなかった判決文であったので、この理不冬な結果に満足するはずがなく、爾後、数回の争いがあった。
 寛保(一七四一〜三)宝暦(一七五一〜六三)年間に細草檀林の関係で、敬慎坊日精師が江戸下谷(したや)常在寺に随従して大石寺法門を受け、帰山して中の坊住職となった。敬慎坊は法華寺十九世隠居日達師に大石寺信仰の同意を得た。
 当時、檀徒大庄屋役真鍋三郎左ェ門のために日精師(大石寺日精上人と区別するために後に日清ともいった)は、大石寺の御本尊を申請した。それを脚夫(きゃくふ)が中の坊に配達すべきなのに西の坊要玄院に渡し、要玄院が法華寺当職二十一代日要師に出して開封したところ、大石寺日因上人の御本尊であったので訴訟騒ぎとなった。そのようななかで、日精師が当番になっていたので法華寺本堂で説法した。日精師は「にせ薬を売る者あり長吉番頭に至る迄其の気に成って取り行ひをなす、吾は渇しても盗泉の水は呑まぬ」などと北山流になった宗門と住持を批判したので、日要師の弟子嘉音が師に告げ、結局、日精師は住職罷免(ひめん)となり遂に公所にて対決となった。法門の義は日達師も同意していたので敗けなかったが、本寺に反抗したという咎(とが)により入牢を申しつけられ、三郎左ェ門とともに丸亀に牢死したのであった。日精師は入牢して二十一日間断食して一山への諌暁の死であった。もちろんこの件には本門寺が積極的に役僧を遣わし、役所に厳しい処断を求めたことは言うまでもない。
 この事件を深く感賞された総本山第三十三世日元上人は、大石寺に敬慎坊を称(たた)えた石碑を建立した(今は現存しない)。

 日精師の一心決定の不惜身命が基礎となり、また北山の勢力が衰えるにつれ、一山に次第に宗祖、開山の正義に復古するには宜(よろ)しく大石寺に帰すべしとして一層、反北山の空気が濃厚になり、讃岐二十四代日カン師は北山の宗掟を一掃し、保寿院とともに大石伝統の法門を弘通したのである。そのため北山では讃徒が大石寺に依るのは寺門の一大事として、さらにこれを庄伏しょうと試みたが効果があがらず、遂に文久二年(一八六二)十一月、本門寺三十三代日信は丸亀妙行寺日輝師を相手取り寺社奉行に本訴に及んだ。その概略を示すと

一、讃岐は慶安元年の御裁許があったにもかかわらず、自立に本寺と唱え、寺号を本門寺と唱えている。
二、法華寺の住持交替に際し本寺へ登山せず、本末の間柄を忘却している。
三、法華寺僧は拙寺へは立ち寄らず大石寺へのみ登山している。また檀家の者も年々多人数大石寺へ参詣しているが拙寺へは一人も立ち寄らず、他宗同様の仕来りである。
 四、釈迦、多宝等を造立すれば無間地獄に堕ちるといい、一尊四士の木像、鬼子母神堂を破却した。
五、拙寺はそれまで薄墨色の衣と同色の袈裟を着用していたが、泉光院の命により黒衣を着用するようになった。しかるに法華寺はこれを拒み大石寺派と同じ薄墨色の衣と真白の袈裟を着し、黒衣謗法・造仏堕獄と唱えている。
六、本寺の書写した本尊を回収し焼き捨てた。
七、檀家の者へ大石寺の本尊を請けさせている。
八、大石寺の墓地へ法華寺二十六代日逞の石碑を建立し、その他僧俗の石塔も数本立っている。
九、拙寺隠居日東、正舜院、信学が法華寺へ行ったところ、追い返された。
十、本門寺の役僧と偽り大石寺の僧弁玉、弁妙に説法させた。
十一、不受不施信仰の者が天保度法華寺のうちに多数いる。

等々である。
 すると直ちに法華寺日昇師は落欠した妙行寺日輝師に替わって答書を送り反論した。けれども寺社奉行は既に慶安年間に決着がついていると見たのか本件を扱うことをせず、役寺に審議させるため本妙寺へ引き渡した。そのため、北山伝灯院日祥は慶応元年(一八六五)十二月、日昇師の答書に対して存意書を役寺に呈した。
 翌二年、北山は最初の訴えを改修したため、法華寺もまた答書の意を補修して日昇師は役寺へ答弁書を送った。
これを二、三、紹介すると
 1、仏像を破却し、替わりに板本尊を安置したというが、日興門流においては諸菩薩等の木像を勧請することは一切ない。既に慶安度の御裁許にも法式の儀については少しも触れていない。もともと仏像勧請の儀は法式にないのであり、これを破却するわけがない。
 2、薄墨衣、白袈裟の着用は祖師、開山以来寺門一同着用してきたものであり、違背の法衣でなく派法を守って着用しているのである。
 3、往古より本尊は拙寺より檀徒に授与しており、本門寺からもらったことは一切ない。檀徒が大石寺の本尊を受けた件は、銘々の帰依に任せただけで拙寺より指図したことはなく、数百年来のことであり、その初めはいつのことかわからない。ことに大石寺は日蓮聖人一期弘通の大事たる本門戒壇の本尊があるから、檀家が往古より信仰している。これまで拙寺より大石寺を本寺と拒んだことはない。

 三月の答申から五ヵ月を要して勝劣派役寺本妙寺は本件を調べたが、結局北山に贔屓(ひいき)したようで讃岐は不利な状態にあった。その上、本妙寺は本件を寺社奉行に差し出し、さらに高圧を加えたらしく、法華寺はやむを得ず権勢に服従することに決め、本件を終止すベく取り扱い方を北山末頭小石川蓮華寺と北山役僧に懇願した。その結果、五ヵ条の改革案を提示してきた。
一、三宝と四菩薩の木像を勧請し、僧俗一同、薄墨素絹、真白袈裟を改め諸色の法衣を着用すること。
二、住持交替の節は本寺に登山し、歴代本尊を受けること。
三、檀家を教導し、本寺へ参詣させ篤信者には本寺の本尊を受けさせること。
四、大石寺に立てて置いた日逞等の石碑を残らず引き取り、本寺へ立てること。
五、本寺の宗法宗掟を一々堅く守り末寺役を必ず勤むこと。

 讃岐はこの五ヵ条案のうち最も重要と思われる本尊と法衣に関しては、奉行所、触頭、本寺、同末寺に登る時は諸色の袈裟黒色の直綴(じきとつ)を着用するという条件を出し、もし法華寺まで改革することにでもなれば信徒の感情を害することになり、法華寺の存亡にもかかわることなので宥免を願いたいと懇望したのであった。この希望は認められ、本尊と法衣の件は従来どおり富士門流の伝統を守ることに成功したが、他の四項目は北山の末寺としてやむを得ず受理するほかなく、法華寺僧俗の苦悶(くもん)は察するに余りあるものがあった。
 このように不本意ながら讃岐と本門寺の間に和議が成立し、それぞれ寺社奉行に訴えの取り下げを願い出たのが慶応二年八月のことであった。

 明治維新を迎え讃岐の真俗はより強く本門寺からの離末を願い、明治六年と三十四年に書を送って運動を展開した。このうち六年の書状に初めて「大石寺へ転寺したい」旨の文がみられるが、実際に法華寺が大石寺に帰一できたのは終戦後の昭和二十一年四月のことであった。
 思うに讃岐本門寺が大石寺に帰一できた要件は、富士門流の本尊形式と法衣を改めなかったことであろう。よく歴史を繙(ひもと)いてみないとわからないが、戦後民主々義の時代を迎え、大石寺に帰一した保田妙本寺にしても、日向定善寺にしても、下条妙蓮寺にしても、本尊は仏像でなく大聖人正意の文字曼荼羅であった。もしこれらの本山格の寺院が要法寺や北山本門寺、小泉久遠寺のように仏像に改奠していたならば復帰は絶望的であったろう。この意味で讃岐の真俗が、紆余(うよ)曲折があったとはいえ、北山の圧力のなかに、極めて長期間にわたり大石寺伝統法門を守りぬいたことは、讃岐本門寺一門の信心に外ならない。
〔『富士宗学要集』第九巻 江戸幕府の宗教統制〕
            (高橋粛道)