蓮蔵坊72年の係争
 
 正慶二年(一三三三)に日目上人は日尊・日郷両師を伴って最後の天奏の途につかれたが、美濃の垂井の宿に御遷化された。両師は日目上人の御意志を継いで代奏を果たしてから、日郷師は御遺骨を奉じて大石寺に帰山したが、同年に日興・日目両上人が御遷化されたことは大石寺にとって不幸なことであった。

 日目上人が御遷化されて二年とたたないうちに大石の西大坊(本坊)を主職とする第四世日道上人と蓮蔵坊(東坊)に住した郷師との間に法義上の争いが起こり、大衆が郷師とそれに加担した僧を追放して乱逆を静めた。堀上人は争点を「宗義の諍」と記すのみで、その内容に全く筆を執っていないが、『家中抄』の「日道上人伝」の中にある文がそれに該当するのであろうか、いずれにせよ法義上の争いは日郷擯出という結末で完全に決着がつき、再燃することはなかった。

 建武二年(一三三五)の秋、蓮蔵坊を退出した郷師は、旧縁の地である安房国に篠生左衛門の帰依を得て法華堂を建てて一時退いたが、東坊地を手中に回復するために、南条の宗家(本家)たる時光の五男・五郎左衛門時綱に働きかけて東坊地一帯の寄進を受けることになった。

 大石寺の東の方は時綱が所領なるあいだ残る所なく宰相阿闍梨の御房に寄進仕る所なり、依て後のために寄進の状件の如し
 建武五年五月五日
        平の時綱在り判
   宰相阿闇梨の御房
                                               
 翌年、時綱は「誡めの状」を認め、子孫がこの状に背かないように念告し康永元年(一三四二)二月には時綱(暦応四年寂・南条時光全伝二五)の惣領(長男)四郎左衛門時長も父の遺志を継ぎ、東坊地を日郷に与えた証状を記している。

 かくして東坊、すなわち蓮蔵坊等の一部は郷師一党の手中に落ち、文和二年(一三五三)郷師はこれを惣衆に付属し、郷師が死去するまで郷門の占有するところであった。しかし、文和二年郷師死去の後は元のごとく大石寺日行上人のもとに帰したようでもあるが、また一転したのであろう、郷師一党は復帰し、延文四年(一三五九)東坊地に御影堂を建てている。

 貞治四年(一二五六)には地頭興津法西から日行上人へ「大石寺御堂並に東西坊中共に去り渡す状」が与えられ、郷門を追放すべき証状を得たが、郷門の対応も素早かった。郷師の跡を継いだ日賢(南条時綱は子息・牛王丸を日郷のもとに出家させ、牛王丸は成長して日賢と称し、後に日伝と改めた)は東坊地を奪取せんと猛烈に行動を開始し、地頭・守護の官憲に工作し奏効して左の証判を得た。
 
 上野郷の内大石寺の事、中納言律師(日賢)申す旨候か、相違無き様御計らい候はば悦と為し候、恐恐謹言
 (貞治四)十二月廿九日
               氏家御判
  興津美作入道般

この他に
  貞治五年九月十七日 法西北
   〃 〃 十月十四日 法西状
   ″ 六年十月 八日  法水状
   ″ 七年二月廿八日 心省状
   ″ 〃 四月十六日 心省状
 応安二年五月廿八日 泰範状
         同     法西状
  ″ 三年七月卅日  心省状

がある。小泉側(郷門)の積極的な運動により、貞治四年から応安二年の六年間にわたり九通の文書を得ることとなり、再び東坊地は小泉側に支配されるようになった。

 その後、応安四年より明徳元年に至るまでの約二十年間には、相互に文書も伝記もなくその間の事情を窺知出来ないが、いつの時か日伝は大石寺本堂安置の大聖人御影を小泉に持ち去ってしまった。その辺の本山の動静は文献がなく知るよしもないが、日時上人は御影返還の可能性がないと感じられ、大仏師越前法橋快恵が来るのを知り、命じて等身大に彫刻せしめ、嘉慶二年(一三八八)十月十三日、大聖人の御人滅と同日に開眼供養された。すなわち今の御影がそうである。長年の論争もあり西大坊(大石寺)はかなり困窮していて、日時上人は苦心惨憺(さんたん)して造立されたようである。

 明徳二年にはまたまた蓮蔵坊一帯の堂宇は大石寺に復帰したようで、日伝は地頭を支配する今川家に歎願している。今川家は興津に伝令を三度遣わしたが、埒が明かなかったので直ちに国主から日伝へ証判を与えた。そして日伝は翌明徳三年三月、国主今川泰範に「鞦(あぶみ)一具羽二尻」を進呈して好転を願い、更に渡し状に五貫文・安堵料に三十貫文支払って官憲の安堵の証判を得ることに成功した。

 一方、この小泉側の工作に村し、今川家は日伝に緑由が深いために日時上人はその上の鎌倉幕府管領に裁決を請うた。これが効を奏してか、翌年一月二十三日に散位状、同二月十七日に泰遠状を得て東坊地は日時上人に打ち渡されたることになった。

 これより十二年後の応永十二年(一四〇五)の法陽状は、係争文書の最後のもので、東坊地を日時上人に去り渡し、法陽の子々孫々に異議のなきことを認めたものである。これにより本係争は完全に終結し、東坊地はもとのごとく大石寺の所持する所となった。勝利の要因について堀上人は
「節丸は左衛門次郎時忠の子、高光は左衛門太郎の子で、いずれも時綱の兄の子であれば、成人して宗家を襲(つ)ぐのは当然のことで、本事件の発生当時は、これらが青少年であって、時綱が地頭職を持っていたが、太郎兵衛尉高光が成人して、これに代わったのはとうぜんのことである。これらの変転で、時綱および時長等は上野を離れて伊豆または安房に移ったものと推考する。そこで、日郷もまた牛王丸も、親族等の支持者を次第に失い、もっぱら今川守護に頼ることとなった。それに引きかえ、西大坊および下之坊はあい変わらず南条主従に護持せられて、日目上人のごとく、日道上人も日行上人も南条家とは俗縁が浅くなく、世出両道の関係であることはすでに諸文献に明らかである。(中略)古文史料乏少の今日では、明らかに決定することはできぬが、精師もほのかに示すごとくに、時師も影師も有師も、また百二十一か条を集成せる日住も、みなみな上野の南条家の出身で、戦国の習い、微禄しても南条を唱えて祖先を偲ばれたものとみゆる。これらの枝葉が次第に繁茂して、陰に陽に西大坊を支持したとみるは妥当の見ではなかろうか」(富士日興上人詳伝八五八)
と言われている。

時光

左衛門太郎  ―  太郎高光
左衛門次郎時忠―節丸
左衛門五郎時綱― 時長
           | 牛王丸(日伝)

 係争の結果、七十年の苦闘によってかち得たものは「双方ともに疲労の二字のみであり、苦闘によってなんらのプラスも残ってないという富士法運のまったくの壅塞であり、顧ればあまりにもバカバカしい騒ぎであった」(同八五六)のは確実で、大石寺は著しく疲弊し、日有上人時代前まで発展は望むべくもなかった。

 ところで、宗門外において東坊地七十年の係争を大石寺の相承論争と誤れる認識をもっていた人が過去にもあり、現在にもいるが、これらの人々は恐らく『家中抄』の「法義上の諍い」や、興津入道の書状に日伝を「大石寺別当」と冒称したことに端を発しているものと思われる。上述したように本件は大石寺の蓮蔵坊等をめぐっての所有権の論争であり、相承問題とは全く別個なものであることは明白である。(富士日興詳伝 『富士宗学要集』八巻・九巻)
(高橋粛道)