八 戸 法 難
 
 天保十三年(一八四二)、玄妙房日成が八戸遊化のために長横町の阿部喜七宅に逗留すると、喜七は段々と教化され、日蓮宗什門派の菩提寺たる本寿寺を捨てて富士の信心に改宗した。次いで姉婿の阿部豊作が入信し、続いて三崎清兵衛、三崎忠助、石橋大治郎、佐藤清助、城前善吉らが入信した。

 翌天保十四年六月、信心が不動のものとなった喜七は清助と同道して遥々大石寺に詣で、日英上人から御本尊と御尊像(大聖人御影)を頂戴し、大歓喜の中に帰路につくのであった。正しい信心を実践できる喜びを日々満身に感じ、喜七は同志と共に使命にもえて地域広布のために折伏を敢行するのである。

 ところが、連日什門の邪義を破折して富士の正義を顕揚していると、それを阻止しようとする不穏の動きが起こってきた。喜七らの勇猛な布教は常に法難と背中合わせであったため、喜七、清助ほか一名の三人が成立時期は不明だが、「三人申合せ案」をつくり、万一に備えたのである。それには次の様にある。

一、此度三人諸共兄弟の義を結び向後御書判に任せて折伏を致すべき事。
二、強折(ごうしゃく)に依て諸人に嫉(にく)まれ家業立たざる節は相互に救ふべき事。
三、三人の中に於て万一法難に値ひ擯出等に預る者之有る節は一同退去を遂げて剃髪を致すべき事。
四、仮令(たとい)富貴(ふうき)の身成りと雖も一同退去の節は所帯並に妻子を捨て速時に退去を致すべき事。
五、剃髪の後は三人諸共同居を致し如法に修行して生涯を送るべき事。

 喜七らの折伏は幕府が寛文四年(一六六四)に日蓮宗の自讃毀他を禁じた法制に触れ、更に改宗も禁令であったので二重に違反していたのである。思った通り信徒が減少し、経済基盤の縮小を余儀なくされた本寿寺が、「富士派はお上が禁止しているキリシタンに類似している宗派であり、改宗は法に触れる」と訴えたのである。弘化元年(一八四四)のことである。

 この日より講中が藩の詮議(せんぎ)をうけ、吟味(ぎんみ)に長日を費(つい)やし、九月二十二日に七人が入牢となったのである。入牢の理由は「お国にない派違いの宗旨を信心し、宗法を取り乱した」ことが主であった。七人は鞭(むちう)打ち、水責め、石責めと苛酷な拷問(ごうもん)の連続であったというが、散失によるものかそれらを示す記録は残されていない。

 十一月二十一日、入牢して約一ケ月後、喜七を除く六人は赦免となったが、講中の中心的存在であった喜七は首謀者として所払い=追放の刑に処せられ 自由の身となった六人はその後も信心を堅く持続し、この内佐藤清助の長子・寿之助は後に函館教会(現在の正法寺)建立の発起人になっている。

 出牢後喜七は各地に遊化し、追放のためにか、あるいは「三人申合せ案」によってか出家を志し、日英上人の弟子となり泰雄日承と称した。泰雄房は追放の身であったため八戸の入国もできず、いまだ罪人の身であったので、日英上人に赦免歎願の書状を提出し、事態の好転を願ったのである。

 折しも安政元年(一八五四)八戸藩主南部信順は江戸において「誠に丹精言語に述べ難い程」の高野周助の努力によって入信し、同年八月御本尊が下付されている。よって喜七は周肋と江戸表八戸藩南部屋敷の奥女中老女・喜佐野(きさの)の歎願により、追放後十年にして赦免となったのである。また、法難によって没収された御本尊と御影像は周助の手によって本山に収められた。

 安政二年に赦免となった喜七は僧形を改めて還俗し帰国した。その後、信順の発願を得て廃寺になった元黄檗宗(おうばくしゅう)玄中寺の名称を受け継ぎ、文久元年(一八六一)十月に正宗の寺院が建立された。このとき再び喜七は僧形に復し、一時玄中寺の留守居をし、新住職確定の後に京阪方面に弘教して大阪蓮華寺十代の住職となり、寂している。〔『富士宗学要集』九卷〕