法難の中心者である茂左エ門は延享二年(一七四五)二月、信州伊那郡小出村(現在の伊那市西春近)に生まれた。茂左エ門の先祖は代々、曹洞禅の転輪山常輪寺に帰依していたが、祖父の代から延山末の感応山深妙寺へ帰依するようになった。転宗の動機は深妙寺の働きかけによるもので、伴蔵はこれにより身延の檀那となった。
伴蔵は身代がよく、深妙寺の建立奉加(ほうが)には金銀を惜(お)しまず寄進したが、菩提寺たる常輪寺へは形ばかりの付き合いであった。たびたび改宗を願ったが聞き入れられず、一度結んだ寺檀関係は容易にほぐされることはなかったので、次第次第に遠ざかり、背くようになっていった。葬式には一往、常輪寺の引導を受け、後にし直しの回向を深妙寺に依頼し、法名も法華に改めるほどであった。その上、自門の入口に題目を認めた石塔を建てるなど、深く深妙寺へ帰依していたのである。宝暦十三年(一七六三)三月に茂左エ門の祖母が寂した折には、棺桶に題目を書した紙を貼ったところ、常輪寺が怒り導師を拒否したため、詫び証文を入れてようやく葬送を済ませることができた。伴蔵から茂左エ門まで七通の証文を常輪寺へ出したという。
茂左エ門はこのような徹底した法華信仰の家庭環境のなかで成長し、祖母の死もあり、さらに自己の信心をたかめようと深妙寺より往来札をもらい、宝暦十三年三月二十二日に千カ寺参りに出かけた。茂左エ門十九歳の時である。様々な大小寺院を経(へ)てから身延に入り、その後、富士大石寺に到り、ここで初めて同じ日蓮宗でも正邪のあることを知らされ、身延は日向(にこう)と実長(さねなが)の不法により日興上人の離山と同時に魔境と化し、正しい仏法は富士の清域に流れていると諭され、茂左エ門はきっぱりと深妙寺を捨て、富士の信仰に入ることを決意するのであった。
天明元年(一七八一)ごろ、再び大石寺に登った。茂左エ門は出家を希望したのかも知れないが、本山は信州の広布を託(たく)し、御本尊を下附したのである。早速、茂左エ門は己(おの)が屋敷内に五間四面の経堂を建て「妙法山蓮光寺」と号する扁額を掲げたのであった。
すぐさま茂左エ門は布教を開始し、同志を集めて題目講を結成し、唱題行に励んだのである。また、万人講を勧めて金銭を募(つの)り、一括(いっかつ)して御供養を本山に奉納したりしている。僧侶の代行者としての彼は御講を営み、同門の法事等の導師を引き受けた。
茂左エ門の熱心な姿勢に触れ、徐々に従う者が村々に出来、日蓮宗はもとより、禅宗からも帰依者が出てきた。
茂左エ門は、内得信仰とは言え、新入信者に対し、謗法払いを勧め、一切の仏神・伊勢の祓札(はらいふだ)・守り等を焼却させ、正月の締め飾りも禁止した。また他宗へ兄弟娘が縁付くことや、逆に他宗からもらうことも誡めているほど、富士の厳格さを実践するのであった。あるときはまた、邪魔が入ってできなかったが、勇七等が禅宗の光久寺に法論をもちかけようとしたり、またあるときは、葬儀終了後の会食で、不信者の前で演壇を出して布教しようとして一騒動を起こしている。茂左エ門達は自分らが富士派であることをけっして隠そうとせず、堂々と信念に生きたのである。同門の紺野儀右エ門が禅宗の僧と同座したことで講を追放された一件があるが、これも彼等の信心が如何に純粋であったかを示している。
しかし、多くの離檀者を出した常輪寺、深妙寺が嫉視(しっし)しないはずがなく、光久寺と共謀(きょうぼう)して天明六年五月十一日に出訴したのである(法難の起こりを天明六年に置くのは『信盛寺史』で、四年説は『法華騒動記』と『富士年表』である)。
出訴に踏み切った理由は次の二点からであろう。一には信徒の減少である。題目講は三力寺の檀那にもかかわらず、仏事等を菩提寺に依頼せず茂左エ門が導師を務めたことである。二には茂左エ門が妙術を使うという風聞(ふうぶん)があったので、邪宗門=御法度宗門とみたのである。茂左エ門の妙術とは、鏡を所持して、同門者が念仏を称(とな)えれば鏡に禽獣(きんじゅう)虫魚の姿を現じ、題目を唱えれば仏と現れ、親の姿を見たければそれを観念すればありありと姿を現じ、お題目を唱え数珠をすれば指の爪より香のように煙が出て、天井に題目の文字の形をあらわすということであった。これは噂(うわさ)であったが、もし事実とすれば人を惑(まど)わす邪宗門となり、処罰は間違いないと彼等は考えたのである。
訴えは秋山五郎右エ門を経て寺社奉行、正木軍左エ門・荒波紋大夫に達し、談合の結果、捕縛(ほばく)することが決定した。翌十二日夕刻、与力同心三十六人が茂左エ門、佐平治、藤右エ門宅と三手に分かれ、その家々を取り巻き、夕餉(ゆうげ)の最中に表裏よりどっと声をかけ門戸を蹴破(けやぶ)り押し入ってきた。茂左エ門は堂堂としていて「ありがたき幸せ」と言って手を回し、他の二名も手錠をかけられた。茂左エ門の所持していた同志からの手紙が押収されたこともあって、広範囲に相当数の信者が召し出され、手鎖や投獄されたのである。
茂左エ門の女房は役人の前に願い出て、主人とは一生の別れになるかも知れないし、あるいは命が尽きず放免(ほうめん)されれば身祝いにもなるので水盃を交(か)わしたいと歎願し、夫婦は泣く泣く別れの盃を交わすのであった。既に両者とも法のために身命を捨てる覚悟ができていたのである。
同月十六日の夜半、茂左エ門の家に村役人の案内にて足軽同心七、八名が家捜(やさが)しのため走り込んできた。経堂には経典、位牌、深妙寺からの祖師・釈迦・多宝の三仏、片隅に常輪寺からの観音像が後ろ向きに置かれてあるだけで、他に怪(あや)しい物はなかった。役人が十歳の亀之助に、なぜ観音像を後ろ向きに立ててあるのかを尋ねると、亀之助は「穢(けが)らわしいが捨て去ることもできないからです」と答え、役人が証拠として持ち去るときも「漆(うるし)千ばいに蟹の足」と言って、観音像は別に包むように頼んでいる。
続いて役人は納戸、物置、土蔵、箪笥(たんす)、長持等、一々捜し、天井、敷き板まではずして調べたが何一つ怪しい物が見つからなかった。茂左エ門は召し捕らわれることを予想していたので、御本尊類は事前に秘匿(ひとく)しておいたのである。
役人にすれば、邪宗門と決めつける証拠があがらなければあとは自白によるしかなく、折も折、そのころ城主・内藤大和守長好の帰国の噂があり、九月に入り吟味(ぎんみ)が著しく厳しいものになって、三日三晩、拍子木責め、水責めとだんだんと苛酷(かこく)になり、命も絶えんばかりに責め立てたのである。さりとも茂左エ門は「一切弁解はいたしません。いかなるお仕置きが続いても少しもお上(かみ)を恨んだりしません。息のある限りお題目を唱えます」と言って声高に唱えるのみで、その外、一言も口に出さなかったのである。なんと威風堂堂とした態度であろうか。
忍耐強い茂左エ門に対し、数日の拷問(ごうもん)は少しの効果も挙げることができなかった。奉行所は手を替え品を替えて、今度は僧侶を呼んで邪宗門かどうか問訊(もんじん)させようとした。拷問が先か、問訊が先か、実際のところはわからないが、延山末の弘妙寺と遠照寺の両住が呼ばれ、茂左エ門と問答したところ、両僧は、茂左エ門の信仰は邪宗門どころか公儀の認める富士派(大石寺)を信仰していることを知り、それを奉行所に言上したのである。その結果、茂左エ門の邪宗門の嫌疑(けんぎ)は晴れ、四カ月にわたる入牢が解(と)かれることになった。しかし、それでも完全に放免(ほうめん)されたわけでなく、改宗を企て、人民を迷わした罪等で茂左エ門一家は領地、財産を没収され、高遠領外の大田切川原に追放せられた。また、同志の阿波屋忠治は在所・山室村に蟄居(ちっきょ)、宮下茂兵衛も追放の刑に処せられたようである。
茂左エ門は常々「大聖人が四十歳の御時、伊豆流罪に値(あ)われた如く、自分も今年は四十歳なので、必ず大難に値うであろう」と言い、勇々、捕縛される日を待ちわびるほどであるから、欠所(けっしょ)追放ぐらいの刑罰には不満であったかも知れない。
一方、原告の深妙寺は役人から、勝手に伴蔵を自宗に引き入れ、自妨の檀那のように往来札を茂左エ門に出したことに対し、きつくお叱りがあって閉門となり、他の二力寺も閉門の処断が下されたのである。
その後、子供達は追放後二、三年で帰郷し、茂左エ門もあるいは数年にして内々帰村していたようである。茂左エ門の信仰は法難を契機により一層着実に深まり、本山に数度登山し、文化七年(一入〇一)四月五日、六十六歳で没した。
〔法華騒動記、信盛寺史〕
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