尾 張 法 難(2)
 
尾張法難(2)天保度

 江戸時代の宗教統制は寺院法度の制定に始まり、この意図(いと)するものは本末制度を強化させることで、末寺を本山が掌握(しょうあく)し、本山を幕府が掌握して、完全に幕府の体制下に組み入れることであった。それ故、キリシタンや不受不施のように統制下からはみ出る宗派は、異端(いたん)邪教として迫害されたのである。

 五人組制度はキリシタン取り締まりを名目につくられ、寛文九年(一六六九)四月には不受不施を寺請(てらうけ)に取らないように法度(はっと)が出されている。寺請制度とは、すべての人間に檀那寺をもたせ、キリシタンでないことを証明させる制度で、寺院が寺社方に出した証明書を「寺請証文」といった。

 少し時代が下がると「宗門人別帳」という制度が出来、一軒ずつ本国、生国、年齢、続柄、名前と檀那寺名、宗派、所在場所をそれぞれ記し、一村ごとにこれをとりまとめて提出している。これにより檀家は離檀することがほとんど不可能になり、離檀しょうとする者がいれば、権力を背景におどしをかけることができた。寺院に生殺与奪権をもたせたのである。
 寺院は「棚経(たなぎょう)」と称して年に数回、檀家が密(ひそ)かに改宗することのないように「仏壇改め」をして離檀防止にやっきとなった。
 寺院僧侶は幕藩の宗教保護により宗教本来の使命を忘れ、ひたすら生活の安住のみを考えるのであった。それ故、離檀はそのまま収入減につながるので、強硬な手段を用いてでも阻止(そし)せねばならなかった。檀家は固定資産であったのである。

 他宗僧侶の堕落は、幕府の宗教政策としての新寺建立禁止、布教禁止、誹謗諍論(じょうろん)禁止と歩調を合わせてひどくなっていった。あろうことか、僧侶はキリシタンを締め出すことを名目に「宗門檀那請合の掟(おきて)」なる偽書(ぎしょ)をつくり、門前に貼って布施の増収を謀(はか)るありさまであった。

 だが、全くと言ってよいほど寺院内部からの反省の声はあがらず、むしろ儒学(じゅがく)者側から排仏(はいぶつ)論が起こってきた。藤原惺窩、林羅山、中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、新井白石らである。これは江戸前期のことであったが、儒学者の指摘に少しも耳を貸さなかった。時代が中期、後期と下がれば、どのぐらい僧侶が地に堕ちたか想像されよう。残念にもこの尾張法難は、そのような僧風の頽廃(たいはい)した幕末に起きたのである。

 天保に入り、奉行所の命として役寺が木全右京を本遠寺に呼び出し改心を迫ったが、右京は庸僧(ようそう)に向かって「私の富士執心(しゅうしん)が誤りなら、どうか御慈悲をもって納得いくように教化願いたい」と申し述べた。けれども役寺はそれだけの教学力も自信もなく、ただ法令を楯(たて)に改心を強圧するのみであった。右京は納得できないので、六月二十四日、「改心証文御免(ごめん)」の状を役寺、檀那寺、本山宛てに出している。

 この右京の一徹(いってつ)の惇心(じゅんしん)は法令と対決するもので、法難は避け難いものになっていった。
 右京の外(ほか)にも寺請証文や宗門人別帳を楯に檀那寺たる妙楽寺から改心を迫られた信徒もいたようで、浄心状(永瀬清十郎)に「反(かえっ)て退大執小の人と成候事歎敷(なげかしき)事に候」「何卆(なにとぞ)万事宜敷取りなし退大執小の人に成らざる由願上奉り候」とあり、わずかの落伍者も出たようである。

 日々油断のできない緊張の連続であったが、文政の御本尊押収事件も一往落ち着き、本山預かりの御本尊も本人に返戻され、天保二年正月二十日の浄心状には「さて第一の事は御本尊様いそぎいそぎ元の如く御守護成さるべく候事専一に候、所詮御本尊様へ向ひ奉り南無妙法蓮華経と唱へ奉候事は事の行に候也」とあり、各自が天井裏や納屋などに隠庇(いんぴ)したであろう御本尊を元の如く安置するように指示している。ただし、元の如くとは、二時の勤行の時だけである。

 加賀の信徒のなかに、柱の中をくり抜き、御本尊をお巻きして守護申し上げた人もいたということを末孫から聞いたこともあったが、尾張の信徒達も押収を警戒し、常には仏壇中央に檀那寺の不正意の仏画像(ぶつえぞう)を並べて平静を装(よそお)い、勤行時のみ秘匿(ひとく)した御本尊を御遷座(ごせんざ)申し上げたのであろう。

 檀那寺による常の仏壇改めでは改宗の証拠をつかむことができないので、役人二人と本遠寺が雷雨のなか、現行犯で掴(つか)まえようと、増右衛門宅に急襲し、捕縛(ほばく)して寺社奉行所へ連行した。これは天保八年七月二十八日の事件で、増右衛門は翌月の五日まで拘留(こうりゅう)された。

 また、小牧の利蔵も同じころ寺社方に召換(しょうかん)され、期日は不明だが取り調べを受けている。そのほか、増右衛門の日記には何人かの名前が記されていて、役人から吟味(ぎんみ)を受けたようである。
 この法難は天保八年七月から翌九年の四月ごろまで断続的に起こったが、拷問(ごうもん)、入牢(にゅうろう)等の悲惨な出来事はなかった。それは、この時点では役人が在家の法門道楽(どうらく)ぐらいに思っていたので、少しおどしをかければ改心するであろうと軽く考えていたからである。

 しかし、利蔵といい、増右衛門といい、右京といい、これらの難儀など格別意に介(かい)さず、かえって、いまだ御奉公が足りないぐらいだと思っていたのである。天保九年五月の書状に能化役の浄心は「当春の法難は各様方不惜身命の御信心返々(かえすがえす)も世に有難き御事に候」と認め、信心を称(たた)えている。
〔尾張法難史・同史料、圭室文雄著「江戸幕府の宗教統制」」