五 重 宝 塔
 
 大石寺では五重塔が建立される以前に寺観の整備が出来つつあった。御宝蔵は日有上人、総門・中門・御影堂・天王堂・垂迹堂は日精上人、三門・位牌堂(十二角堂)は日宥上人、堂唱堂は日寛上人によりそれぞれ創再建されていた。このあと客殿は日養上人によって造立され、残るは五重塔で、既に重須本門寺にも建立されており、日寛上人は宝塔建立を思い起こされたのである。

 日寛上人の発願により、日宥上人、日養上人の三上人の間で建立に当たっての話し合いがもたれたが、膨大なる資金調達を必要とするため、直ちに着手というわけにもいかず、将来に向けてその資金づくりから始めることになった。
 まず、建立準備金として一人五十両ずつ醵金(きょきん)することが決定した。その正本が総本山にある。

一、金五十両、塔供養、塔御普請始り候年より御約束の通り五年の間に米にて清五郎左衛門方より差上げ申すべく候、以上。
 享保十一丙午年六月  日寛判

 ずいぶんと寺院数も信徒数も少ない富士にとって資金調達は苦労の連続であった。
 日忠上人の時代には江戸三ヵ寺檀中から一人毎月十六銭ずつの掛金の御供養があり、それに天英院の寄進した残りの分も入れて、御宝蔵金、塔納金、掛金等、合わせると五百三十三両までになった。

 さらに、日因上人の代に大檀那・板倉勝澄公より一千両を得、江戸三ヵ寺信徒の三百四十八両、加州信徒の三百十七両二分、根檀家の百五十両、日因上人の奉納金百両等を加算すると二千四百九十八両の金子(きんす)が集まった。また、六代将軍家宣公の三門造立に喜捨した残余の木材を充てて一往、可能な範囲で準備が調ったのである。

 日寛上人の発願から五代の上人を経て、日因上人の代にようやく着工することとなった。早速、江戸から棟梁・中野市右衛門を招き、延享三年六月二十八日に釿始(ておのはじめ)があり、これより四年を費やして寛延二年六月十二日、堂々とした宝塔が建立されたのである。

 完成するまでに総費用四千二百十三両を要したため、千七百十五両一分不足したが、五百両借り入れたので、最終的には千二百十五両一分不足することになった。これを日因上人が東奔西走してどうにか工面されたようである。

 竣工を祝い三日三夜、開眼供養を催したところ、前代未聞の群衆の参詣があり、昼は論義・説法がなされたと記録されている。
 周知の如く、本山の建物が多く南向きに建てられているのに、五重塔が西向きに建てられたのは、大聖人の仏法が東から西へ、日本から中国、インド、そして全世界へと流布していく仏法東漸の相を示したものである。日本中に相当数の五重塔が建立されているが、このような意義をもつ宝塔は他にないであろう。
(五重宝塔建立由来)