尾 張 法 難
 
尾張法難(1)文政度

 江戸の目黒に永瀬清十郎(本山第四十人世日量上人の俗弟。晩年、久遠院の弟子となり、演妙日敬と称す)という熱心な富士の信徒がいた。この人は、もと一致派の信仰をしていたが、富士の正義に帰伏し、日量上人の指導により宗学を充分に身につけるようになった。

 文政五年ごろから清十郎はしばしば尾張に入り、富士要達、遠山照作等と仮名を使い、高崎勝治の母・たよ女を教化した。たよは急激に布教し、井上俊弥の母、綿屋伝右衛門の母、同金七の母、畳屋文右衛門の母等を勧めて六日講を組織した。

 翌文政六年には北在ではようやく清十郎の努力が実を結び、寄木村の平松増右衛門、小木村の船橋儀左衛門、小牧村の岩田利蔵、外山村の木全右京、名古屋では井上俊弥等の人々が帰伏した。これより陸続と小木村の彦六、大山村の利助、下山繁三郎、美濃国兼山の太平、名古屋の小出正作(日柱上人の祖父)等が入信し、北は美濃の加治田、南は尾張の清州まで布教が伸び、相当数の同志が生まれていった。

 文政七年には名古屋に高崎唯六(勝治)が中心となって「本因妙講」が生まれ、さらにいくつかの講中が組織されていった。
 これより前後するが、利蔵の入信はこうである。利蔵は二十二、三歳の時、一致派の日明に随身し、御書の勉強を重ねていた。ある日、日明が「子は壮年より御書を拝見したが、法門が甚深のため、その意味を理解していない。所詮、日興上人の眼を借りてこれを照らさなければいけない」と言ったので、利蔵は富士門流に心を寄せていたが、入信するまでには至らなかった。折しも清十郎が尾張に入ったのを機に富士に改派したのである。利蔵は入信後直ちに登山し、本山また器許して、目師譲状等の秘書、文段等、数百冊の書籍を書写させた。

 また、増右衛門の場合は、彼は農業の傍(かたわ)ら、習字を教え、製薬を営む教養のある人であった。時に日蓮宗々学の組織者たる一妙院日導の法孫で、本用院日就という僧がいた。この人は盛んに折伏を実行していたのである。一方、後に身延山第六十代に就任した一雨院日潤という老僧は摂受(しょうじゅ)主義で、二人は説法の高座で駁撃(ばくげき)を加えていた。遂に書面をもって文政六年六月から七月まで三度の往復論争をしたが埒が明かず、一雨院が触頭(ふれがしら)の妙勝寺に持ち出し、名古屋の寺社奉行の裁断を仰ぐこととなり、双方とも処罰されることになった。この事件の書類を増右衛門が写しているが、実力ある檀家でなければ写すことなどできるものでない。北在には本用院の強義折伏に心酔した熱心な信者達が満ちていたのである。

 しかし、清十郎の日蓮宗破折に対し、講頭をはじめ、だれ一人として打ちまかすことができなかった。そこで、皆が増右衛門の智弁を恃みとして勝利を期待したが、おもむろに慈誨され、翻然(ほんぜん)と信伏したのである。増右衛門の入信により北在には清十郎に敵する者はいなくなったという。

 このような有能な人材が輩出し、強固な講が出来上がっていったのである。この時、清十郎三十歳、増右衛門三十四歳、右京二十九歳、利蔵二十七歳、唯六三十三歳の血気盛んな年齢であった。

 文政七年の春にはこれらの主だった人々が本山に詣で、御本尊を拝受できるほど信心が深まっていった。
 弘安五年の宗祖滅後から文政五年まで、実に五百四十一年の歳月を要して、ようやく強固な法華講が出来たのである。江戸時代の幕藩体制下においては布教も新寺建立も許されなかった。これが大きく立ち塞(ふさ)がり、富士の興隆を阻害したが、いつまでも眠れる獅子ではなかった。幕藩の力がいくぶん弛緩(しかん)すると時を同じくして、いっせいに各所で隠然と折伏が展開されたのである。ここ尾張においても同様で、開山上人の紀氏への下種は四百余年を経て実を結んだのである。

 文政七年十一月には入信者も増え、異体同心、広宣流布を推進するために八ヵ条からなる講規を作った。
 翌文政八年七月二十八日には、高崎勝治、綿屋金七、同伝兵衛、岡崎九兵衛、井上俊弥の五人が小川町本成寺へ出かけ、本用院日就を詰問した。この起因は同年の春ころ、本山より義門という僧が岐阜に寄って京屋善兵衛を教化したが、未熟であったためにかえって日就に富士の法義批判を求めた。日就は日頃からの富士への恨みもあり、『富士門評破』という書を善兵衛に送り、同人を警告した。この写しが名古屋の本因妙講中の手に入り、見ると私曲邪見おびただしく捨て置きがたいので、押し掛け問答をして八十九項一々赤面閉口させたのである。これが世に言う「名古屋問答」で、筆録して御当職日荘上人、御隠尊日量上人へ御注進したのである。

 信徒も減り、法論にも完敗した日就はさぞかし口惜しかったであろう。
 だが、講中の盛況は、逆に他宗の怨嫉、官憲の迫害と進むものである。藩の権力が弱まればそれだけ統制を加え、取り締まりを強化しょうとするのであり、生活基盤を縮小された他宗寺院、それに連なる信者は一層、陰湿に行動するようになるのである。

 同年八月、桜井村(今の春井村付近)の松本治左衛門宅で、木全右京が新調の羽織を着てお講の導師をして御書を拝読していると、突然、神保治八、同浅右衛門、野村勇士郎が土足で上がり込み、右京を押さえて「木六月、竹八月、木全の頭は今がはりどき」と叫びながら散々に打擲(ちょうちゃく)し、羽織を引き裂くなどの乱暴を加えたのである。これは私的な迫害であったが、その後、役人に密告して官憲を動かすことになる。

 文政九年七月二十八日の夕刻、右京が家族一同で勤行していると、大雨・大雷にまぎれて役人・島田治右衛門、種田権六、一致派妙楽寺智秀、村長和右衛門等が座敷に土足で押し入り、御本尊を取り上げ、暴力をふるい、あたかも狂気狼籍(ろうぜき)の振る舞いをするのであった。乱暴を受け、御本尊を奪取されたのは右京だけでなく、定一の記に「法難最初の仏敵大毛村妙善寺、名古屋役寺大光寺なり、此の時六幅程取り揚げ、役寺預りの由」とあり、主だつ人は法難を受けたのである。
 御本尊を失い、悲嘆に暮れた右京であったが、懺悔と、より一層の信心が日量上人の認めるところとなり、後に再下附が許された。その御本尊の授与書には、上人の配慮により最初の日付で「文政第八大歳乙酉八月吉日尾州外山八幡宮神主木全右京」と認められた。
 その後も邪徒が横奪をねらっていたが、右京等は巧みに御守護申し上げたのである。

 文政九年十一月十六日夕刻、中村新兵衛、米屋茂兵衛、翌々日、北在の信徒一人が登山し、一連の法難の経過を寿命坊においでの日量上人に委細に報告申し上げたのである。法主上人は満山大衆を随従して出仕し、御戒壇様を御開扉申し上げ、「今般法難の面々早速申し披(ひら)き相立ち無難に相済み、弥(いよいよ)以って宗祖開山の御本懐其国に光顕し、順逆共に本因の仏種を相結び候様」と御祈念され、このたびこそまことの法難であるから退転なく信心に精励するよう望まれたのである。さらに、法難の余波を心配され、時節到来まで本山での御本尊預りを指示され、穏便に修行することを願われた。

 文政十年正月二十三日の状には、音信が途絶えたため大変に心配され、「穏便に御修行候て一人も多く当門に帰入せしめんと思し候が、各旁々の身に当りたる真実の対治破悪の折伏修行かと存じ候」と書翰を出されている。(つづく)
(尾張法難史、同史料)