弘 化 法 難 (2)
 
弘化法難(猫沢問答)−後−

 訴訟の決意を日寿側に告げ、日英上人の御意を体して役僧蓮東坊日禎が十月二十三日に本山を出立、二十六日出府し、江戸三箇寺たる常在寺・常泉寺・妙縁寺と相談の上願書を作った。訴訟人は蓮東坊、相手は名主安右衛門、組頭新右衛門、百姓五郎右衛門、日逢、日寿であった。
 江戸時代には触頭制度があり、触頭は寺社奉行の命令を配下寺院に伝え、寺院の願書、訴訟を寺社奉行に取り次ぐ仲介機関として特定の古大寺院が定められていた。各宗で江戸に一あるいは数箇寺を選んでこの役にあてたもので、日蓮宗勝劣派は役者・役寺などと呼んで本妙寺・長応寺がその役であった。このため日寿等を奉行所に訴えるにあたりどうしても触頭の添書を必要としたのである。

 十一月二十七日、願書が出来上がったので蓮東坊は常在寺日静と同道し丸山本妙寺へ行った。役僧慶運に対し「万事やむを得ず出訴することにしたので何卒願書熟覧の上添書をお願いしたい」と依頼すると、本妙寺が他行につき、出なおしてほしいとのことであった。

 十一月二十九日、再び本妙寺へ行くと役僧が「もっとものことなので添書を出してあげたいけれど、来春になってしまうので芝の長応寺に連絡しておくから、そちらの方にお願いして戴きたい」というので引き返した。
 三十日、蓮東坊、常在寺が長応寺に着く。役僧相円が出て「願書巨細書等を提出するように」と命じ、本件を日英上人の代理として役僧蓮東坊が訴訟人になることを認めてくれた。

 十二月七日、蓮東坊、泰本坊(妙縁寺)が長応寺へ出むく。役僧相円に添書をお願いすると「三箇条の内一箇条は悪口に相違ないが、他の二箇条は造仏読誦堕獄の廉に触れるから二箇条の返答を承った後に添書を出したい」との返事であった。蓮東坊が再三「その儀は奉行所で即答する」と答えても、十分な土台固めをしてから添書を出したいと強く主張するので、後日返答するといい、仕方な〈願書巨細と付属書三通を渡し帰寺することになった。

 九日、学頭久遠院日騰上人が出むき、顕応坊日教と日辰の件、重須の件について口頭で返答した。その夜使いの者が左の書状を携えて来た。

 覚
一、永禄年中顕応坊日教と要法寺日辰との記録之有るべく候間書上げ申さるべき事。
一、元禄年中北山の異論の書上も類焼仕り候間書上げらるべき事。
右の通り長応寺申され候条其の意を得らるべく候。以上。
  十二月九日 長応寺役僧相円・
        註山
 大石寺蓮東坊様

 十一日、日騰上人が右の質問に対し役僧に答えた後、長応寺が現われ「役寺たる私共も奉行所に出頭することになるので、どんな詰問にも即答出来るように十分下調べをしておきたい」と断わり「大石寺が造仏堕獄、読誦無間というので、一致派としては自宗を守る為に大石寺を誹謗したのだと主張されると宜しくないので、大石寺では造仏堕獄、読誦無間と宣伝したことがないという一札がほしい」というのであった。この件に関し妙縁寺に日量上人、日騰上人等が集まり、審議して次の一条を作成して十二日に長応寺に届けた。

 恐れ乍ら書付を以て申上げ奉り候
一、本尊の儀は先々より書上げ奉り候通り十界勧請の大曼荼羅を掛け奉り祖師開山の木像を左右に之を安置し三宝と称し奉り候事。
一、依経は法華経、朝夕勤行の式は方便寿量の二品を相用ひ候事、但し檀林に於ては一部読誦仕候、其外造仏堕獄読誦無間等の自讃がましき義は元禄三年書上げ奉り候通り一切仕らず候、去り乍ら拙門所立の儀外々より難ぜられ候はば其会答仕るべく候。以上。
 弘化三丙午年十二月 日
  駿州富士大石寺役僧蓮東坊
長応寺御役僧中

 その後年を越しても触頭長応寺から何の連絡もなかったので、弘化四年正月に訴訟人大石寺役僧蓮東坊、差添人泰本坊、両人の名をもって実際に寺社奉行所へ提出する予定の書状を添えて「前書の通り寺社奉行所へ願い出で候間御慈悲を以て御添翰(てんかん)成し下されたく願い奉り候」と長応寺に添書の発行を願ったが、これまた無視される結果となった。

 訴訟の埒が明ないのを心配され御当職日英上人も出府された。続いて信徒の代表狩宿村佐源太も正月三十一日援軍として参じた。その後も蓮東坊が度度触頭に掛け合うが一致方(役寺)の言葉を用いてか当方の説得に応じる気配はなかった。

 二月十三日相手方の日寿・日逢が出府し、大石寺を種々悪様に宣伝し、二十七箇条の返答を役寺に示したため、かえって長応寺は大石寺側を不行届の様に理解したので、二十六日役僧共に会い、きつく申し破ることになった。

 二月二十七日、蓮東坊・泰本坊が大石寺総代である佐源太を役寺に引き合せ、いままでの経過を細かく報告させると、これを聞いた役寺は「出訴するのか、あるいは相当の詑書を差し入れれば勘弁するのか、佐源太を交えよく熟談の上明日報告してほしい」とのことであった。一同が寄り合い評議すると佐源太は「このまま和解でもすれば五百軒の檀家に申しわけない、どうしてでも出訴したい」と言うので、翌二十八日訴訟の返答を役寺へ報告に行った。役寺は来月六日に寄り合いがあり、そのとき協議して決めることになるから七日に来るように」との返事である。この寄り合いには勝劣派から本妙寺、長応寺、一致派から善立寺、法恩寺等が出席している。

 当日出むくと一致派役僧の反対があったようで「添書は出せない」という愕然(がくぜん)とする回答であった。こうなると一番の障害は役寺なので「一致派の役寺から一札を取るまで後に引けない」ときっぱり言い張ると「役寺から一札を出すことはとても出来ない。その代わり、日寿から詑書を取ってあげるからそれに就いてどういう内容のものであれば納得してくれるか」というので「駿河一国にて日寿に説法させない」という内容のものなら佐源太も一応納得してくれると思うので、これで勘弁したいと主張したのである。このときは大石寺側が一歩も二歩も譲歩して解決を望んだのに役寺の対応はすこぶる消極的で「これは容易なことでない。ちょうど十五、十六の両日品川妙国寺において役寺の総寄り合いがあるから、そのときに相談したいので十七日に出むいてほしい」というのであった。

 約束通り十七日に行くとまたしても話しは振り出しに戻り、詑状も添書もうやむやになってしまった。
 役寺に添書を願い出て五箇月が経過した。筋を通して役寺を立てたが、これ以上臆病で、一致派に加担する役寺を相手にすることは出来なかった。自らの手で道を開く以外方法はなかった。百計尽きたが最後の手段としていよいよ四月二十二日直訴を決行したのである。その任に折伏名手の覚遠坊が上人の代理として選ばれた。寺社奉行月番内藤紀伊守の駕籠(かご)に入牢の覚悟で直訴したのである。幸いなことに覚遠坊は取り押えられることもなく紀伊守は訴訟を取り上げになった。

 ついに四月二十六日長応寺の差添(さしぞえ)と「恐れ乍ら書付を以て御訴訟申上げ奉り候」と題した覚遠妨の願書を提出することが出来たのである。
 願書受理の朗報を得た諦妙は立宗宣言の四月二十八日に『六巻抄』を謹写し、その奥書に「大願満足、広宣流布、天下泰平、五穀成就等」と記し、奉行所の本件取り上げを心から喜び、富士の勝利に絶対の確信を持ったのである。
 けれども日寿は便玉、道林を相手取り応訴したために、二人は江戸に呼び出されることになった。

 六月五日、寺社奉行脇坂中務大輔が覚遠妨、便玉、道林、そして被告日寿、日ずい、日逢を法廷に連座させて公判が始まった。まず脇坂淡路守が日寿に対し「大石寺が不受不施・異流・片輪の宗旨だという証拠を出しなさい」と言われると一言の返答も出来ず、ただ「恐れ入りました」というのみであったので、淡路守は日寿を叱責する有様であった。また、日逢も淡路守の追求に「恐れ入りました」と自己の非を認めるのであった。
 日寿に反省心があると察してか、淡路守は刑に処せず本件を内済にしたい旨を覚遠坊に伝えた。それを覚遠坊が承知したので、詑書一通で決着がつくことになった。長文だが左の如くである。

  詑びる一札の事
一、 貴山は日蓮大聖人の正統富士門徒と相唱え本因下種付属の御弟子日興上人の開基に之有り、殊に御公儀様より御朱印頂戴なされ候寺格にて天下に隠れ無き日蓮宗勝劣派に相違御座無く候所、去る午(うま)年中拙(せつ)寺どもの内光徳寺日逢儀は貴山に対し不受不施などと申し書付を下柚野村名主伴之助へ相渡し、円明寺日寿儀は猫沢村妙覚寺に於て説法の節、大石寺門流にては法華経を片輪に致す故利益之無き道理、本尊の外諸仏諸天善神を祭らずと申す者は末法の外道と之を申す、おおいしをかかえ地獄に落ちざる用心して御信心致すべし等の三箇条の説法相違之無き旨の書付を以て是又右伴之助並に狩宿村名主佐源太に相渡し、円恵寺日ずい儀は右日寿を預り書差出し候義にて、今般貴寺より我等三箇寺を相手取り脇坂淡路守様御奉行所へ御訴訟成され、当月五日訴答、一同召出だされ始末御吟味の上、我等三箇寺とも厚く御理解を蒙り一同心得違いの段有り難く相弁(わきま)え御理解の趣き逐一(ちくいち)承伏恐れ入り奉り候、然る上は向後貴山に対し誹謗がましき悪説は勿論自讃毀他一切口外仕るまじく候、後日の為連印詑一札入れ置き申す所、仍て件の如し。

   弘化四末年六月
  駿州富士郡下柚野村光徳寺 日逢判
  同州同郡大久保村円恵寺 日遥判
  豆州君沢郡三島宿円明寺 日寿判
 大石寺役僧覚遠坊師

 けれどもこの公判に両者とも納得しなかった。詑書を受理した大石寺側は日寿の詑の文句に軽重の違いのあったことに不満を示し、今度は役者寂日坊日現が出府して寺社奉行所へ不服を内達したのである。また日寿も一致派触頭の智慧をかり応戦することを決めたので、再び審議が開始されることになった。

 日寿は三箇条につき便玉からの書状を奉祈所に提出し、便玉・道林の自讃毀他罪を訴えた。便玉の書状には日寿への反論として「邪見鈍根の僧」、「宗祖違背の者」、「外道」等々と認(したた)めてあったのを逆用され、便玉は奉行所から徴せられた。これに村し便玉、道林は直ちに御書、法華経を中心に一万数字からなる正論を認め、日寿を「邪見鈍根の僧」等と言うのは宗祖大聖人の仰せに叶うものであり、決して自讃毀他に相当しないことを主張したのである。しかし、そのことは認められなかったようである。そして日寿に三箇条につき御書の明文を提出する様に命令してほしいと奉行所に願うのであった。

 その後各村の名主も吟味され、更に十一月に入って六箇村代表精進川村名主栄左衛門が奉行所の尋ねに付き、発端から破談に至るまでの経過を一通り報告して、一応の証拠収集と審議は終結したのである。
 いよいよ十二月十六日に脇坂淡路守の裁許が下りた。奉行所の判断は「宗義の内容に関係せず唯その行動が国法に触れるか、触れないかに重点を置き喧嘩両成敗の如くに裁断した」のであった。

 その中で被告の日寿は本件中最も重罪の中追放に処せられ、江戸・京都・大阪の三都市と駿河一円の所構(ところがまえ)になり、日逢は逼塞(ひっそく)、日ずいはお叱りの刑になった。猫沢村名主安右衛門は過料三貫文を三日以内に、同村与頭(くみがしら)新右衛門はお叱りの刑であった。

 一方原告側の富士派は「軽追放とも称すべき」便玉、道林の江戸十里四方の追放、伴之助、佐源太の江戸払い、諦妙の過料五貫文、覚遠坊の役僧解任と押し込め、日英上人の逼塞、寂日坊日現の逼塞という不合理な刑が下された。
 大石寺側は正当な訴えが認められなかっただけに「法難というべき」であり、日寿には「大石寺を公衆の前に無次の讒謗をあえてしたるより起こる罪科なれば法難にあらず自業自得の世罪である」というべきである。
〔文中敬称略〕(富士宗学要集第九巻)