弘 化 法 難
 
弘化法難(猫沢問答)−前−

 弘化三年の大石寺御当職は五十一世日英上人で、四十人世日量上人が寿命坊に御隠尊でおられた。
 柚野(ゆの)には大石寺末の蓮成寺があり、その近辺に一致派の妙覚寺、光徳寺、円恵寺等があり、三島には円明寺があった。
 蓮成寺は当時事務取扱いとして諦妙が務めていた。光徳寺は延山末で日逢がおり、円明寺には布教上手とうわさのある日寿がいた。

 弘化三年一月二十一日、下柚野村中村政兵衛の母が死去した際、仏法を弁えない日逢は近所の誼(よしみ)としてか、葬儀に参列したので、所化の諦妙は「当宗では他檀から施物を受け取ることを謗法というのである。お引き取りいただきたい」と言うと、日逢は怒って「それでは大石寺はキリシタン、不受不施と同様だ」と罵(ののし)った。
 そこに居合わせた蓮成寺檀家で名主の伴之助が「捨て置き難いことである」と謝罪を求め、また村役人も掛け合ったので事の重大さを感じ、日逢は低身平頭して詫証文を書くことでおさまった。

 書付一札の事
一、先月廿二日当村政兵衛母死去の砌拙寺諷経罷越し、御法席に於て大石寺御宗法を切支丹、不受不施の廉に及び候様と申上候儀後日御糺しに預り恐れ入り候、右通の段余りの心得違に御座候、大石寺に於ける御宗法の儀は宗祖日蓮大聖人上足の弟子日興開基にして日蓮宗正統日興御門流と申すは隠れ無き事明白に御座候、然る上は向後宗内真俗に至るまで右様なる儀急度申す間敷候、仍て一札伴(くだん)の如し。
 弘化三年二月 日
  同郡下柚野村 光徳寺日逢判

 また、同日伴之助、役人要右衛門達が連判して蓮成寺檀方に一書を出している。
 右前書の通り相糺の上、書付一札 取置候事明白に御座候、万々が一 右様の者これ有候節はお役人より急度取締り貴寺方へ少しも御苦労相掛け申す間敷候、後証のため仍って件の如し。
 弘化三年二月 日
    下柚野村 要右衛門判
          伴之助判
上野大石寺末蓮成寺総檀方中

 しかし、日逢はこの一件を遺恨に思い、茂兵衛、保右衛門外数人と馴れ合い奸計(かんけい)をめぐらしていた。
 同年四月、円明寺日寿は瓜島の近村まで廻り大石寺を誹謗したのである。
一、御本尊の外に諸仏諸天善神を祭らざる者は末法の外道なり。
二、寿量品の一品を出離生死の要法と相立て候者は日蓮上人の本意に背き片輪の宗旨と成るべく候。
三、本門の南無妙法蓮華経を唱え奉るものは大石寺を背負って無間地獄へ落つる者なり。
 この三箇条を骨子として日寿等は徒党を組み、近隣村々へ大石寺は御法度の宗旨であるから取りつぶすべきよう企み、檀家にも悪説を語らい、末法の外道邪宗門などと言いふらしていた。

 時に日逢は猫沢村妙覚寺が無住で相当の荒寺であったので、同寺の檀家であり名主である安右衛門と計って復興させることにした。それには離檀の防止と檀家の増加、資金の調達が必要であった。このために日逢は日寿を招聘(しょうへい)するのだが、前回の遺恨を晴らすことでもあった。

 いよいよ九月五日、六日の両日、日寿を迎えることになった。日逢は前日より安右衛門を使い、所々村々に立札を立て「布教師日寿の来寺」を告げた。
 九月五日早朝、富士の便(弁)玉、道林、義運は下柚野村伴右衛門方へ推参し、境導院日寿が教化のためとして妙覚寺に来ているので、三箇条を尋ねたいから面会を取り計るように申し入れたところ、伴右衛門はこれを承知し蓮成寺で控えるように言った。
 一方茂兵衛外六人の主立つ蓮成寺檀家は妙覚寺に行き、日寿の説法を聴聞することにした。案の定日寿は三箇条も含め種々大石寺を罵(ののし)った。当初から説法の中心をここに置いたのである。

 便玉、道林が日寿を「衆生教導と偽り売僧(まいす)が世を渡り説法す」と評価しているようにひどい悪僧であった。便玉等が弘化四年八月に寺社奉行所に提出した書状には「既に猫沢村に於ても高座にてくじびきをいたして衆人を誑惑(おうわく)し、本尊守札等を価の高下に随って売買し、供養米と号して袋を配り、灯明銭と号して度々ザルを廻し、見苦しき教諭をいたし、遊戯雑談のみにして真実の法門は希(まれ)なり、法師の名を借(か)りて世を渡り候説法に相違御座無し」と記している。

 蓮成寺に居た便玉等に、四時を過ぎても何の返答もなかったので、一同伴右衛門の家に行く。ようやく八時過ぎに名主伴之助、役人要右衛門が来て
「今朝申し入れた案内立ち会いの義は隣村の礼儀もあるのでお断りしたい」
と言ってきた。
「それでは先に蓮成寺総檀方に出した一条はどうなるのか、こういうときに働いてくれると約束したではないか、こうなれば明朝自分達で直接交渉する」
と憤慨し、便玉、道林は蓮成寺に帰り、義運は右の様子を本山に報告に行った。

 六日朝、便玉、道林、義運は猫沢村名主安右衝門の所に行き「日寿に会いたいからぜひ案内してほしい」と言うが断わられ、「それでは説法の邪魔をしないから合わせてほしい」と言うとこれも断わられ、再三の要望に安右衛門はあれこれと屁理屈をつけて面会を拒否し続けた。
 午後から再び妙覚寺に足を運び面談の取り次ぎを依頼すると留守居が顔を出し
「只今説法中なのでしばらくお控え下され」
と言うので庫裡(くり)で待つことになった。追々檀徒も集まってきた。夕方になっても日寿が現れないので万之助が安右衛門に掛け合うと、安右衛門は「申し訳ない」と詫び、面談は明日の昼と約諾し、両人は蓮成寺へ、義運は本山へ報告に、檀中はそれぞれ帰った。

 七日早朝、便玉、道林、義運、大石寺檀徒、六箇村の役人、四十三箇村行事役の淀師村保兵衛が妙覚寺に集まった。六名の役人が安右衛門に
「昨晩の約束通り日寿と両僧の対面を望む」
と催促すると
「その件は役人に任せるからお待ちを」
と言うので待つが、二時過ぎまで数度催促するも返答がなかった。四時になって延山末の妙泉寺、安立寺、日寿の取り次ぎの僧とて円恵寺日ぜんが出てきた。筋が違うので引き取らせ、村役人に取り次ぎをさせようと村方に掛け合うがこれもできなかった。

 八日早朝より一同妙覚寺に詰める。ようやく昼過ぎ光徳寺日逢、円恵寺日ぜんが姿を現わし、掛け合うが進捗(しんちょく)しない。仕方なく三箇条につき日逢に返答を求め
「私的な意見でなく法華経、御書の証拠を出すべし」
と言うと、出来ないという。あれこれ詰め寄るうちに日ぜんが押し切られ村役人が日寿を迎えに行くことになった。しかし、日逢が現われ断わる。このため日逢に掛け合い、取り次ぎを依頼すると、日ぜんが「光徳寺様が差し止めしているので、光徳寺様の許しがあれば面会を取り次ぐ」と言うので、日逢に「なぜ本人の面会を止めるのか」と詰問(きつもん)すると、日逢は「本人には左様伝えてあるが会うやら会わないのやらわからない」と言った。
「それならば円恵寺様より取り次いでほしい」と言うと「出来ない」と断わった。「先程の言葉と相違する」と言うと頭をうなだれて黙ってしまった。それでも代わる代わる食事を持ち込んで何十回となく交渉を重ねたが結局返答が得られず、深更に及んだので日寿を隣寺等に預け、三人共本山に帰り、檀中もそれぞれ帰宅した。

 九日早朝、三人と檀中一同妙覚寺に詰める。檀中から掛合人を五、六人選び度々催促(さいそく)したがようやく二時頃日ぜん、日逢が姿を現わし「三箇条を俗人なら高座を構えて聞くべし、出家ならば上席を造り聞くべし」と言うので、掛合人の一人が「高座にて聞く必要はない、三箇条を御経御書を引き合せて立証できないのなら約束通り袈裟を渡してもらいたい。もしそれができないなら日寿を引き渡してほしい」と言うと日ぜんはまたも黙り込んでしまった。
 ここで日寿の求めにより便玉から日寿に問いの三箇条を渡し、日寿から三箇条の自筆の下書を受け取った。しかし日寿の三箇条は高座にて申したことと大いに齟齬(そご)していたので、この件は明日明らかにすることになった。

 十日早朝より三人妙覚寺に詰める。昼過ぎに大雨がふり二時に日ぜん、日逢が、四時に村役人が来た。行事役に保兵衛が立ち会う。三箇条の返答を求めるとやっと真夜中になって「窺(うかが)うべきところに窺った上で返答する」とのみ答えた。返答までの間は村役が預ることになり、六箇村請合いにて証文を作ることになった。日ぜん等は印形を持参していなかったが、外は大雨のため取りにも行けず一同妙覚寺で一夜を明かした。
 朝食を済ませ、後に捺印するということで十時頃猫沢村保右衛門、組頭新右衛門の加判を得、大石寺総代佐源太、伴之助宛に光徳寺、円恵寺が書状を呈した。

 差止申す一札の事
一、当午(うま)九月五日六日猫沢村妙覚寺に於て三島宿円明寺境導院日寿説法興行に付き法門を触れ候三箇条不審相尋ね度申され候へども、拙寺ども方にても其向に窺相立候上にて返答申し入さすべく候間、窺ひ相済む迄は拙僧ども慥に預り置き候上は他行等一切致させ申すまじく候、後日の為仍って件の如し
 弘化三年午九月  隣寺総代下
柚野村光徳寺判 大久保村円恵寺判
 大石寺檀中総代狩宿村佐源太殿
       下柚野村伴之助殿
前書の通り相違御座無く候間加判仕候已上
 猫沢村名主保右衛門 組頭新右衛門
 
 一方便玉からも光徳寺、円恵寺に一札を入れそれぞれ妙覚寺を引き上げ、主立つ人は本山に引き帰った。
 然るにほどなく日寿が加島辺で説法している由を伝聞したので、佐源太等は日寿の身分預り書を出しながら他行させ説法させたことを村役人に断固として抗議した。

 十一日午後、宝蔵院、延命寺、専(千)光寺、常蔵、文蔵が本件の担当役になったと伝えてきた。

 十二日夕方、常蔵、文蔵が「猫沢村から詫び証文を出させ、光徳寺、円恵寺の奥印で御承知いただきたい」と言ってきたので便玉は断わり「当方は前から三箇条の返答を問題にしていたのであり、日寿、光徳寺、円恵寺が三箇条の返答はできないと詫び証文を書くなら許してあげよう」と言うと、常蔵は「日寿の印形なくとも両寺の印形があれば宜しいか」と言うので便玉は「日寿が右三箇条の返答ができないと書き入れればかまわない」と答えた。

 十三日、夕方迄返事を待つが連絡がなかった。

 十四日、催促を受け夕方になり、ようやく常蔵、文蔵が顔を出し、猫沢村名主の詫書に光徳寺、円恵寺の奥印のついた『差出し申す一札の事』と題する妥協案ともとれる書状を携(たずさ)えてきた。結局常蔵達も日寿を説得するができず、お茶を濁すだけであった。
 書状中に日寿は反省の色をみせ、組寺に一書を呈しているふうであった。事実日寿は寺院衆中宛に詫書を提出した。これによれば「私の説法により大勢の村の人々を煩(わずら)わせ、寺院にも心配かけたことを恐縮している。今後当州に於いて大石寺批判をしない」というものであった。けれども大石寺側の寺檀はこの書状に満足することはできなかった。それは日寿自筆の詫証文が蓮成寺側に出されなかったことと、何よりも三箇条返答の取り交わしを結んでおきながら、返答を強く望んだ便玉等に対し少しの返答もなかったことである。
 他行をさせないと一札を入れておきながら、日寿が加島あたりで説法するなど証文そのものが非常に軽く感じられ、詫書よりも法門上での決着による解決を重視した。即ち、便玉らは僧侶の取るべき法は法門によって黒白を決すべきであると考えていたのである。
しかし、日寿は法門において論伏されるのは堪え難い恥辱(ちじょく)であったので煮え切らない態度を一貫して示したのであった。

 十五日早朝より保兵衛、曽平、定治郎、伊之助等は七箇村に破談になった旨を告げて廻り、その後身延の直檀でもある名主安右衛門に掛け合った。
 安右衛門は「いずれ身延に窺って返答するから二十日迄待ってほしい」という返事であった。

 二十日、蓮成寺に寂日坊日現、理境坊日護、総代、檀中集まる。昼過ぎ六箇村の代表として佐左衛門と利助が「本人が帰宅していないので明日夕刻まで待ってほしい」と頼みに来た。

 二十一日、一同夕刻まで待ったが返事がなかったので当方より出むいて問い詰めたところ、二十八日まで日延べしてほしいとのことであった。

 二十八日、猫沢村名主安右衛門が身延本山よりの書面を出した。

  得 意
 先規御触の趣き堅く相守るべき事
一、問答対論は御奉行所の御下知之無きに於ては相成らざる事
一、有職の僧は其寺院に於て応対の時御下知に依るべし、俗家の得道は其菩提寺本山の教諭たるべし
 右の通心得有るべし、大石寺様へ此段御届け成さるべく候

 つまり身延は暗に日寿と便玉の対論を停止させたい意向を大石寺にも示してきたのである。
 日寿側は、本来三箇条に付き身延に窺いの上返答するはずなのに『得意書』を得てから交渉にすこぶる消極的となり、うやむやにして終止符を打とうと考えていくようになった。そのため度重なる交渉にもとかくかれこれと言い粉(まぎ)らして日を延ばしたのである。

 便玉等は六箇村とも破談となったために、拠所(よんどころ)無く大石寺側は出訴して決着をつける以外方法はなくなってしまった。
 出訴の方針は代表者一、二名によって決められたのではなく檀中の総意にもとづくものであった。

 九月、檀中一同が大石寺宛に、十月には檀中総代佐源太外代表二十一名の連判をもって、大石寺役者中宛に三箇条の理非糺明(きゅうめい)を願う一書を呈している。
 こういう大石寺檀家総勢五百名の後押しがあって、いよいよ出訴に及ぶのであった。勿論この行動は御禁制に触れることであり、法難を避けがたい現実として受け止めつつの決意であった。 〔文中敬称略〕
(富士宗学要集第九巻)