熱 原 法 難
 
 竜の口法難は日蓮大聖人が凡身を転じて仏身に成られた重大な法難であったが、熱原法難はその仏様が、いかなる目的で出生されたかを明示する、これまた重大な法難なのである。

 前者は宗祖御一人の身に、後者は一農民に起きたもので、どちらも宗学上、たいへん重要な意味をもっている。この二大法難の意義を知らずして“私は日蓮大聖人を信じている”などとはいえない。身延や池上、そして中山の僧侶や信徒は、この二大法難の意義を少しも解っていない。それだから、釈尊の仏像を祭ったり、二箇相承を否定したりするのである。
 ここでは宗祖大聖人が戒壇の大御本尊を御図顕される契機となった熱原法難の経緯を記してみようと思う。

 大石寺を開闢(かいびゃく)された御開山日興上人は寛元四年(一二四六)四月、甲州大井荘の鰍沢(かじかさわ)に出生された。父とは幼少にして死別し、母が再嫁したこともあって、外祖父たる河合の由比入道に養育され、十二歳の時、岩本(駿河)実相寺に剃髪・出家された。

 実相寺は一切経を備えており、折しも大聖人が『立正安国論』執筆のため、同寺に泊り仏典を閲覧されていた。朝夕お給仕申し上げていた日興上人は日蓮大聖人の御高徳に触れ、弟子となる決意を固め、名を伯耆(ほうき)房と賜ったのである。

 宗祖の弟子となった日興上人は、四十九院や実相寺に住した日位、豊前房、筑前房等を教化し、宗祖の弟子にした。
 その後、日興上人の布教活動は熱原の地にも広がった。熱原の南部に天台宗の滝泉寺があった。滝泉寺は、現在の富士市伝法町に位置する大寺院であった。
 日興上人は、その僧侶たる下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅、三河房頼円を折伏して改衣させ、宗祖の弟子にしたのである。日興上人を頂点とする僧侶は実に強靱(きょうじん)な使命に燃え、折伏戦を展開したのであった。

 このような状況に対し、滝泉寺院主代・平ノ左近入道行智は激怒し、宗祖の弟子となった信徒に圧力を加えてきた。このため日蓮大聖人は、援軍として弟子の佐土房日向、学静房等を遣わして日興上人の弘教を助けられ、また『異体同心事』なるお手紙を送られて門家の結束を図られたのである。

 滝泉寺の「本院主」とはどういう人か、どこにいたのか不明であるが、寺院運営は院主の代行たる行智が一手に掌握していた。行智は大聖人をさんざんな目にあわせた平左衛門尉頼綱の一族であり、教義も解らぬ無慚(むざん)な俗僧であった。

 彼の非行ぶりはひどかった。寺内の法華三昧堂の供僧たる蓮海に命じて法華経をバラバラにほぐさせ、渋紙(しぶかみ)をつくってこれを寺院の修理に当てた。お経本を襖(ふすま)に使うなどということは前代未聞のことである。また、日弁が実相寺の修理のためにお上から預かっていた屋根の木端板(こばいた)を行智が横領し、無知、無才で盗人の兵部房静印から過料(罰金)を取って罰を許し、有徳の人材と称して同寺の供僧に抜擢(ばってき)したのである。さらには、あろうことか出家の身でありながら寺院の農民をけしかけて猟をし、鳥、狸、鹿を射殺して寺院で酒盛りをするなど、酔狂の限りを尽くした。はなはだしきは寺内の放生池に毒を入れて魚を殺し、それを農民に売って酒肴代にするほど、悪辣(あくらつ)な売僧(まいす)であった。

 教義を抜きにしても、このような悪僧のもとに正常な僧侶が仕えるはずがなく、信徒も帰依するわけがないのである。次第に滝泉寺の主(おも)だつ学匠は念仏を捨て、宗祖の膝下に連なったのである。

 こうなると行智はだまっていなかった。にわかに日秀、日弁、日禅、三河房頼円に圧力を加え、改心を迫ってきたのである。「法華経は信用できない教えであるから信仰をやめ、向後は阿弥陀経を読み、南無阿弥陀仏を称えよ。この命令に違背せぬと誓約書を書け。書けば許すが、書かぬ者は寺内から追放する」とおどしてきたのである。

 ここに、三河房頼円は臆病にも身の安泰を計り、謝罪して法華信仰を捨棄する誓状を書いて滝泉寺にとどまり、事なきを得たのである。しかし、他の三人はかえって行智を訓戒して正義を主張したが、これがために住坊を奪い取られ無頼の身となったのである。

 やむを得ず日禅は生家の河合に帰り、日秀、日弁は行智の統制の及ばない他の坊に移り住んだ。自由の身となった日秀、日弁はますます折伏に精を出し、熱原郷の農民、神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟を初めとして多くの百姓達を入信させたのである。これにより、いよいよ行智は法華宗を憎みだしたのであった。
 時を同じくして、実相寺の道暁、四十九院院主たる厳誉は法華宗の教勢を恐れ、院主権を濫用(らんよう)して日興上人、日持、日源、日位等を山内から追放したのである。

 日興上人は直ちに実相寺、四十九院の邪義、横暴をあばき、『四十九院申状』を作成してお上に訴えたのであったが、何の沙汰もなかった。幸か不幸か、住坊を追われた日興上人は一段と布教に専心し、他宗破折に専念されたのである。
 ことに、熱原の折伏戦は日興上人を大将に、日秀、日弁が補佐し、大進房、三位房が宗祖の命を受けて援軍に駆けつけ、信徒では南条時光殿が身命を惜しまず奮闘したのである。この「我不愛身命」の戦いによって法華宗とは正反対に、みるみるうちに滝泉寺は衰退し、法論では勝算がないとみた行智は国家権力を利用して、一気に法華宗の勢力を消沈させようと奸策(かんさく)をめぐらしたのである。

 この地の下方庄に行政刑罰を務めとする政所(まんどころ)が設けられていた。行智は自分が平左衛門尉頼綱に縁故があるのをよいことに、政所の役人を抱き込み、また、大変な曲者(くせもの)で村のボス的存在として恐れられていた弥藤次入道と結託し、あらゆる手段を用いて信者に圧迫を加えてきた。

 手始めに行智等は、法華経信奉者を処罰する旨(むね)の幕府の御教書を二度偽作して、信徒を威嚇(いかく)したのである。だが、宗祖からの激励を受けていた僧俗の固い団結の前には不当な圧力も効果をあげず、ますます法華経の信仰は強まっていったのである。

 しかしながら、そのようななかからも執拗(しつよう)な行智の造反工作に乗せられ、信徒では大田次郎兵衛親昌、長崎次郎兵衛時綱が退転し、僧分でも大進房、三位房が師敵対している。特に大進房などは日興上人の先輩に当たる人でありながら、日興上人の人望に嫉妬するなど信心にすきができ、そこを魔神につけ入られて、逆に行智等と手を組んで同志を迫害するように変わっていった。

 退転者は所詮、負け犬である。彼等は以後、全く宗教に無関心に生きるか、あるいは己の正当性を主張せんと元同志に悪口雑言(ぞうごん)を吐くかのどちらかである。後者のほうが厄介である。大田親昌、長崎次郎時綱、大進房、三位房等は徒党を組んで魔軍に変じ、信徒の寄り合いをうかがっては駆けつけ、さんぎんに横暴の限りを尽くした。

 弘安二年(一二七九)四月八日には、駿河三日市場の大宮浅間神社の分社で流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われ、そのさなかに雑踏(ざっとう)にかくれて信徒の四郎を傷害し、さらに八月には弥四郎の首を斬り落とす残酷なことをしている。犯人は、いつも役人が後ろで画策していたから、一向に捕らえられなかった。逆に行智等は「日秀達が殺害した」と訴状に書き付けるほどであった。

 五十九世日亨上人は
「神四郎等のように殉難の壮烈を喧伝唱導せられぬのはおおいに気の毒の至りである。此れも殉難者として神四郎等と共に廟食追弔せらるべきである」(熱原法難史)
と、斬首された弥四郎も熱原三烈士とともに顕彰、追弔すべきことを提言されている。

 さて、同志の不幸に少しもひるまぬ法華衆に村し、行智は教勢壊滅の機会をうかがっていたのである。
 弘安二年(一二七九)九月二十一日農民達は稲刈りをしていた。この時とばかり大進房、大田親昌らが下方政所の役人とともに襲いかかり、神四郎以下二十名が捕らわれてしまった。その罪状は、神四郎の実兄・弥藤次の名をもって
「大勢の法華の信徒が弓箭を帯し、日秀の指揮のもと、院主の田に入って稲を盗み刈りし、日秀の住坊に取り入れた」
というもので、全く偽りの訴えである。神四郎以下二十名の信徒は、その日のうちに鎌倉へ引き立てられていった。

 日興上人は直ちに事の子細を身延にお住まいの日蓮大聖人に御報告申し上げた。宗祖は十月一日に『聖人御難事』を認(したた)められ、二十人のうちでも信仰に動揺している者や、特に村に残る老若男女に対して門家一同が激励し、援護するように促された。お手紙の内容は
「あの熱原の信仰の弱い者にはよくよく激励して、おどしてはいけません。彼等にはただ一途に決心させなさい。善い結果になるのは不思議であり、悪い結果になるのは当然と思いなさい。空腹にがまんできなかったら、餓鬼道の空腹の苦痛を教えなさい。寒さに耐えられなかったら、八寒地獄の寒さの苦痛を教えなさい。恐ろしいというなら、鷹にねらわれた雉、猫にねらわれた鼠を他人事と思ってはいけないと教えなさい」
という非常に厳しいものであった。

 一方、大聖人は鎌倉に捕らわれの身となった無実の罪の信徒を救うために、鎌倉問注所に抗議の訴状を日興上人と共作された。これは『滝泉寺申状』と呼ばれる。すなわち、弥藤次入道が信徒の弓箭(きゅうせん)を帯しての乱暴、狼籍、窃盗を証拠としたのに対し、日興上人は全く事実無根の作り話であると反証した。
 けれども、裁く役人が竜の口法難で日蓮大聖人を断罪にせんとして失敗した平左衛門尉頼綱であり、それが悲劇であった。問注所へ抗議した十二日の当日、平左衛門は私邸を法廷として、直ちに審議を開始した。審議といっても、事件の核心たる刈田・乱暴・狼籍を通りいっぺん審議するだけで、本音は熱原の信徒の信心捨棄(しゃき)を目的として威嚇するにあった。

 神四郎、弥五郎、弥六郎以下二十人を私邸の庭にすえ、平左衛門は宗祖への恨みを檀那に晴らさんとばかり「題目を捨てて念仏を称えよ。そうすれば無罪放免にしてやる」と言って、甘言籠絡(かんげん ろうらく)させようとした。しかし神四郎等
は「たとえ重罪に処せられるとも、題目を捨てない」と声強に言った。平左衛門はこの返答に激怒し、自らの生命より題目が大切だなどというのは天魔が乗り移っているからだと思い、十三歳になる子息の飯沼判官資宗に命じ、蟇目(ひきめ)の矢をもって神四郎等を責め立てたのである。

 蟇目の矢とは、矢じりがかぶら矢の形をしたもので、中を空洞にし、数個の穴をあけ、放つと音が出るようになっている。当時、これが天魔退散に効果があると信じられていたので、平左衛門はこれを使って魔を調伏しょうとしたのである。矢はヒユーヒユーとうなって恐怖心を与え、当たれば激痛が走る。平左衛門は矢の恐怖で題目を捨てると思ったが、彼らは矢が放たれてもひるむこともなく、一同が題目を唱えて法悦にむせんだ。もはやそこには死を超越し、法に殉ずる金剛不退の信心の姿があった。
 やむなく平左衛門は中心者の神四郎、弥五郎、弥六郎を処刑した。三兄弟は命のかよわん限り題目を唱えて殉死したのである。他の十七人は罪状も不明のまま放免された。

 日興上人はこの日のことを直ちに使いを遣わして大聖人に御報告申し上げた。大聖人もこの報告を受けて深く感嘆され、十七日に『聖人等御返事』を認められた。それには
「今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易(かわ)りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王(しびおう)等の如し将(は)た又悪鬼其の身に入る者か、釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等・五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、大論に云く能(よ)く毒を変じて薬と為(な)す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、妙の字虚(むな)しからずんば定めて須臾(しゅゆ)に賞罰有らんか」(全集一四五五)
と認められている。

 しかして、法難のすべてがこれで終焉(しゅうえん)したわけではない。行智は三烈士の斬首に力を得て、法華信仰の根絶を計っていたのである。偶然に稲刈りに加わっていなかった信徒への圧迫も当然あった。また、信徒の新富地(富士)神社の神主まで捕縛(ほばく)しようとしていたのである。三烈士の殉死から一年も経過していたにもかかわらず、政所の詮議は厳しいものがあった。

 このなかで南条時光は、これら信徒をかくまった。そのために租税の賦課が加料されるなど、いつまでも弾圧に苦しめられたのである。それでも献身的な南条時光の貢献に対し、宗祖は「上野賢人」と呼ばれ、めでられている。
 法難によって日秀、日弁も富士にとどまる所がなく、下総に移り、日興上人も上野に退却を余儀なくされたのである。

 以上が熱原法難の経緯であるが、これだけの法難を、上代において当宗を除いた日蓮宗各派が少しも記述していない。熱原という限定された地域のみに起こった法難とはいえ、その意義は重大なものがある。

 すなわち、宗祖大聖人は一文不通の農民が妙法のために命を捨てるという、僧俗一体の信行の上に不自惜身命の姿が現実に現れるべきことを観じ給い、ついに御本懐たる大御本尊を、この法難を契機に顕されるのである。それこそが、日興上人以来、当宗に秘伝されている大御本尊である。この御本尊は究意中の究竟(くきょう)であり、御本仏と開顕せられた大聖人の御出現の本懐が、ここに極まるのである。日亨上人は
「将して裁判には負けたが、勝せた平左衛門は間もなく族誅(ぞくちゅう)せられ、其の主人公の北条家も跡形もなく亡び、将軍家も疾(はや)くに権威を失した。況(ま)して行智等は寺と共に消えてしまうた。負けた神四郎の方は永久に其の壮烈を護法の魂と仰がるるので、賞罰明なるものである」(熱原法難史)
と、三烈士をたたえられている。(熱原法難史)