蛇 久 保 法 難
 
 蛇久保法難に関する古記録は妙光寺檀越・高橋文雄氏が蔵する「恐れ乍ら書付を以て申上奉り候」と題する『歎願書』一通が現存する。この他に、資料があって散失したのか、あるいは当初からなかったのかわからないが、受難者の子孫のなかに事件のあらましを伝承しているという人がいるので、資料以外に少しく梗概(こうがい)を知ることができる。

 天保十二年(一八四一)正月、上蛇久保村百姓・高橋源兵衛の弟の甚右衛門の女房が難産のすえ一命にもかかわるような重病になったので何人かの良医に治療してもらったが効果がなかった。また、檀那寺である池上本門寺塔中本成院の本尊を篤く信仰して病気平癒を祈願したが少しも利益が顕れず、苦悩にあえぐばかりであった。折しも富士大石寺の御本尊を信仰する浅見市五郎という屋根屋職の配下に森下平次郎という人がいて、この人の勧めなどによって同年七月、大石寺へ改派し、強盛に病気全快を祈願したところ、早速初心の功徳が顕れ、直ちに快方に向かい健康を取り戻した。

 大石寺信仰の現証を目の当たりに見聞した同村の金子喜兵衛、金子庄蔵は荏原郡小山村の麻耶寺から、森谷平次郎、森谷権三郎、森谷定右衛門、高橋源兵衛、高橋惣右衛門、高橋源左衛門等は本成院からそれぞれ転派し、その他多くの人々が富士の信仰を決意し、やがて本門信行講を結成した。

 けれども、幕府の厳しい離檀禁止令があったので他宗の木像等を払拭できず、公に常泉寺檀徒と名乗ることもできなかった。すなわち、形式的には他宗の檀家で、実質的には当家の信者という形を取らざるを得なかった。そのため、各自の仏壇には一致派の祖師の木像等を片隅に寄せ、大石寺の御本尊を中央に奉褐して、農事の合間や天候不順の時に皆が一堂に集まり、唱題、座談会にと、信心修行に打ち込んだのであった。

 翌年の天保十三年三月、金子喜兵衛外七名が入牢させられた。法難の直接の原因は『歎願書』によれば名主・高橋久左衛門の私恨によるもののようである。名主が禁止されていた質屋を営んでいたことや、その伜・政三郎が大勢の無宿者と昼夜の別なく博奕に夢中になっていたのを、同信の年寄・惣右衛門、源左衛門に注意されたのを逆恨みしたのであった。

 平次郎等は本成院の檀家であるから宗門人別帳にも本成院の証印があったが、名主の久左衛門はこれを白紙と差し替えて帳面を綴り直し「平次郎等は一致派に帰依していないから宗判がない」などと奉行所に虚偽の申立をしたのであった。檀那寺の証印がなければ戸籍がないことになり、事は重大なので早速、金子喜兵衛等は取り調べを受けることになった。

 役人の取り調べに対し、喜兵衛等は理路整然と伊奈半左衛門、関保右衛門宛に書状を呈している。
 まず、富士の信仰を人に勧めたことがないこと。さらに、信仰するようになった経緯を述べ、農事の妨げになるほど凝り固まった信仰はしていないこと。先祖の霊情には背いておらず、一致派の本尊を残らず焼却していないこと。人別帳の件は名主の私恨によること。早々に宗判を得、人別帳を差し出すので、今後も百姓を続けさせてほしいこと、などであった。

 この弁明に対し、奉行所はいかなる処置をしたか、罪の軽重は不明であるが、長期に及ぶものではなかった。
 法難より数箇月後の九月一日と三日に、信心を立派に貫き通した証に森谷平次郎、森谷兼次郎、高橋源次郎、金子喜兵衛等が、日英上人から御本尊を下賜されている。
 それより先、同年三月二十日、日英上人は第三十三世日元上人御筆の御本尊に「蛇窪信行中」と加筆され、一同に下附されている。正信を貫徹する困難さのなかに、強盛な信仰者が蛇久保の地に集まっていった。
 やがて、これらの人々の後継者の努力により、後には妙光寺が建立されることになるのである。
(品川・妙光寺誌)