富 什 問 答
 
 本問答は富士大石寺と什門(顕本法華宗)との間で、明治に起きた公開問答である。

 明治三十三年十月二十五日、什門の田辺善知は、かねて交渉中の富士との論争を一宗を賭して実行したいと、常泉寺住持・土屋慈観師(のちの日柱上人)に伝えてきた。

 田辺は、この年、大石寺ではお会式につづき一宗独立祝賀会が修され、多数の僧侶が在山するのを空前の好機ととらえ、法論を仕掛けて来たのである。

 彼の手紙によれば
「宗祖が広宣流布の布教方法として公場対決を望まれたように、その末弟たる者もかくあるべぎで、公論によらず一個の私論で決着をつけるようなことになれば、宗祖に対しても、法に対しても忠実なものとは到底いえない。什門より富士を見れば富士は迷えるもの、富士より什門を見れば什門は迷えるものだから、法論をなすことは迷者を救護する一大美事である」
「法論に反対する者がいれば、自ら富士に乗り込んで勧奨したい」
というほどの力の入れようであった。

 田辺の手紙を取得した日柱上人は法論の申請を宗務院に提出し、宗務院はこれを評議員会に諮詢(しじゅん)した。その結果、法論全権委員の代表に阿部慈照師(のちの日正上人)が選定された。

 委員の出そろったところで会見の日時、場所等が交渉された。日時は明治三十三年十一月十一日、場所は浅草慶印寺で、富士から日正上人、日柱上人、什門から井村恂也、関田養叔、田辺善知が会見し、双互に委員が妥当であることを認め、左の「討論規約」を締結したのである。

 討論規約
第一条 論題は左の二種とす。
  第一項 経巻相承と血脈相承との当否。
第二項 末法に於て釈尊本仏論と宗祖本仏論との当否。
第二項 第二条 引証の書目は録内四十巻に限る。
第三条 対論者は双互三名宛を出す事。但し対論期日一週已前互に氏名を通告する事。
第四条 論場は錦輝館とする事。
第五条 対論は明治三十四年二月十六日より開会する事。
第六条 対論の方法は左の各項に依る。
  第一項 対論者は相互一名宛・交に弁論する事。
  第二項 一人の弁論中は他の発言を許さず。
  第三項 発言の場合は一人十五分を超ゆるべからず。
第七条 勝敗決定の方法は左の各項に依る。
第一項 勝敗は弁論の通塞に依る。
第二項 互に自義を募り勝敗決せざる時は与論に訴うる事。
第三項 法論の結末を告げざるに相互の一方に於て中止を図るときは敗者とす。
第八条 敗者は勝敗決定の日より三日已内に帰伏を出し同時に左の各新聞雑誌に広告する事。
一 朝日新聞
一 読売新聞
一 明教新誌
一 妙宗
一 統一団報
一 万朝報
一 二六新聞
一 日宗新報
一 教友新誌
第九条 敗者は一宗を挙げて改宗する事。
但し其の宗派の僧俗にして改宗を肯ぜざるものあるときは相互協力勧誘する事。
第十条 敗者の宗派は主務省に向て改宗の手続を履行す。
第十一条 対論準備委員として三名宛を出す事。
第十二条 対論開始以前に関する重要の件を第八条の新聞雑誌に広告する事。
第十三条 記録者は双方より二名宛を出す事。
第十四条 速記者は双方より二名宛を出す事。
第十五条 各宗派管長各宗教団及び各新聞雑誌宛へ案内状を出す事。
第十六条 対論立会人として双方より僧侶十名信徒二十名宛を出席せしむる事。
第十七条 法論準備に関する細則は準備委員に於て規定する事。
第十八条 対論に関する経費は総て切半負担する事。
第十九条 本規則は本年十二月十五日
限り管長の認可を経て互に通告する事。
 追加、第十一条の準備委員は管長認可の通告と同時に互に選定通告する事。

 前記の規約に対し、その当時から批判があった。それは、敗者が一宗を挙げて改宗するという重大論争にかかわらず、その勝敗を決定すべき方法が論者弁論の通塞によるという曖昧さであったこと。また、勝敗が決定しない場合は世論に訴えて決するという漠然としたものであったことである。

 ともかく、富士では規約条項について議論もあったが、什門の提唱に譲歩し、委員に一任することになった。特に第二条の引証の書は録内四十巻に限るというのは、什門の主張を全面的に呑んだからである。

 かくして規約第十一条により、富士では管長・日応上人によって対論準備委員として日正上人、日柱上人、秋山慈円師(のちの日満上人)が認可され、什門からは本多日生の名のもとに準備委員として田辺善知、今成乾随、関田養叔の三名が選ばれて、二月十六日の開会を目指して運営の準備にかかることになった。

 しかし、いったん美濃の自庵に帰られた日正上人は東京住まいの日柱上人に顕本との交渉を依頼した。富士では、問答をするに臨み、宗会に問い、評議員会に附し、委員を選出し、三分の二以上の調印を得て対決することになったが、什門は三分の二以上の調印を取る約諾をしながら実行していなかったので、この辺のことを田辺に聞いてほしい、とのことであった。富士としては、一宗を賭して法論をする以上、一箇の私論に終わらせたくなかったからである。

 田辺の返事によると、賛成調印は「現在、手続き中である」とのことであった。だが、委員の一人である今成は賛成の調印を得ようと千葉県下に派遣せられ、遊説のところ、前々管長・坂本日桓に叱嘲されている。その上、明教新誌上に什門の僧・日譲が問答に対して反対意見を投書するなど、顕本宗門は全く不統一であった。

 日正上人の詰問に対し、田辺は「本宗委員は一宗を代表する公の委員だから心配するに及ばない。日譲などという僧は顕本にはいない」などと偽りの返答を寄せているが、明教新誌四五九〇号には什門側から投書があり、痛烈に田辺を批判しながら「日譲は什門の法流を酌む僧である」と記している。このように顕本の宗内には富士との対決を望まない分子が大勢いたようで、田辺らの一党が高名を得ようと無理に推進した感がある。

 当然、規約第十一条に定める準備委員は管長の認可により選出されるべきところ、什門には内訌があり管長が不在で、事務取り扱いの本多日生が代役を務めた形を取っている。日生はこの法論を宗会にも評議員会にも附していない。どだい、管長が定まらないほどの什門が三分の二以上の調印を取ることは不可能であった。このため、日正上人の指摘に対し、田辺等は「約諾した覚えがない」と開き直り、ただただ再三、再四にわたって法論をするための会合をもちたいと要求するのであった。
 このような什門に対し日正上人は、田辺等が対論決定後の去就を曖昧にすると看破し、調印を得ない限り、いかなる請求にも応じないとはねつけた。

 明治三十四年一月十七日、什門には賛成調印を得ることが不可能であると見た富士は、規約第九条・第十条が空文に帰するため、ついに規約全文の取り消しを田辺等に通告した。

 什門は、この状を受け取るや、富士は逃遁したとか、様々な悪宣伝をして回った。よって富士は取り消し状を明教新誌に広告し、かつ、その顕末を公衆に知らせるために一月二十日、東京の伊勢平楼に五百人の聴衆を集め、大演説会を開いた。弁士は有元広賀師、日正上人、日照能化、日柱上人、日応上人であった。このうち、日正上人は対論件の顛末と取り消し状を発した理由を弁明し、日応上人は什門に対する左の七簡の質問書を印刷して聴衆に配布した。

 顕本法華宗に対して質問
 第一、一品二半に二意あり熟れの配立を取るや。
 第二、顕本に五義あり顕本宗の顕本は何れを本とするや。
 第三、宗祖所顕の大曼荼羅は其の実体何物なるや。
第四、宗祖所顕の曼荼羅中仏菩薩の列座の次第会座に違ふが如きは如何。
第五、宗祖所顕の本尊年度に依り所図の(或は善徳仏十方分身の諸仏を書し或は之を除去す)不同のある理由如何。
第六、宗祖所顕本尊中の記銘に仏滅後二千二百二十余年・或は三十余年と記し給ひ差別・並に文永建治の御本尊に二千二百三十余年と記し給ふ理由は如何。
第七、宗祖所顕の本尊の中央に南無妙法蓮華経日蓮判と大書し、釈迦多宝の二仏等は傍らに細字を以て書し給ふ理由は如何。
              以 上
 明治三十四年一月二十日
   日蓮宗富士派 法道会員

 けれども田辺等は取り消し状に取り合わずとして二度、三度、法論のための準備委員会を開くように請求状を出している。そこで日正上人は、彼等の怨念が永く三悪道に彷徨するのを隣れんで、上人個人として公場対決の広告を出した。

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論 題
 一 経巻相承と血脈相承との当否。
 一 末法に於て釈尊本仏論と宗祖本仏論との当否。

 引証書目
 一 録内四拾巻に限る。
 右の項にて対手を択ばず公場に於て討論致度候間至急申込を待つ。
 本所区向島小梅町常泉寺寓
   日蓮宗富士派僧
         阿部慈照
顕本法華宗僧侶 御中

 二月十四日、什門の富士への批難中傷に対し、日正上人、日柱上人は明教新誌に真実の法論取り消しの経過を発表し、続いて二十日正午より両国井生村楼において聴衆五百名を得て、大演説会を開いた。これには「顕本僧侶の質問を許す」として、彼等に招待状を発した。当日の弁士と演題は、日応上人が「顕本宗は本尊に迷えり」、日照能化が「顕本宗の邪義を破す」、日柱上人が「顕本宗は宗祖の正意を知らず」、日正上人が「三たび問答を促す」等であった。

 しかして、什門は卑劣にもこれに対抗せんと、顕本大勝利、富士敗北の演説会を二十四日、同所の井生村楼に開いた。当日の光景は、質問も許さず、ただ罵詈(めり)毒舌を吐くだけであったので、二百余名は卑劣な弁士の説を“聞くに足らず”と座を立ったため、余すところはわずかに顕本の信者ぐらいであったという。

 二日後の二十六日正午より、富士は北品川町芳十亭において顕本宗折伏の大演説会を開いた。芳十亭のある品川は本多日生のいる妙国寺があり、三百余名中、九分までが什門の者に占領せられた。弁士は日柱上人、日応上人、日照能化で、本多日生が法論を申し込む勇気がなかったので、日正上人のほうから法論を促し、三月一日に公場対決することを約し、大石日応上人と田辺も同日、附帯して問答する契約書を交換したのであった。

 この日、本多は日照能化との遣り取りで満場の嘲笑を受け、閉会後、腕力をもって日正上人に突いてかかったので警官等が取り押さえ、退場させる一幕があった。この暴状は二十七日付の「万朝報」に載り、数百万人の物笑いになったという。

 二十六日の夜に、三月一日午前十一時から午後五時まで江東伊勢平楼において対論する条約を締結し、問答形式による法論の許可を本所警察に願い出たが許されず、双方、交互に三十分ずつ講演するということになった。

 三月一日、いよいよ対決の日である。場内正面の一段高い中央に演壇を設け、その左右に速記者席、記録者席、演壇の後方に弁士席、立ち会い人、会主、幹事の椅子を並べ、場内は三分して中央を一般者席、左右を富士・什門両派の信徒席と定め、騒乱を予想して場内各所に警官が立った。

 対論の順序等で交渉に手間取り、時間が大幅に遅れ、十二時半から往復六回、交互に二十分ずつ発表することになった。富士からは論者に日正上人、付き添い日柱上人、記録者水谷秀道師(のちの日隆上人)、什門からは論者に本多日生、付き添い関田・井村その他であった。

 第一席は本多日生から始まり、彼は当然のことながら、口伝の存在を否定し、経巻相承に依らなければ真実の教えは伝持できない、と言い、日正上人は、経巻相承は血脈相承の上に建立されて初めて、正しい解釈ができる、と主張された。講演の内容は省略するが、第十一席目の本多の主張の最中に、臨監の警部から「問答の体をなしている」と注意があり、第十二席目に日正上人が演壇に立ち、予定通り講演は終結した。

 本多は形勢不利とみてか、約束に違いまた演壇に登って贅弁(ぜいべん)を弄(ろう)したため、両全主が制し、聴衆はいっせいに「顕本敗北、もう聞くに及ばない」と言い、騒然とする場面があった。警部は解散を命じたため、日応上人と田辺との対論はおのずから消滅して、三時過ぎに散会となった。

 当時の記録によれば、聴衆の本多に対する声援は柏手もまばらであったが、日正上人の主張には大柏手、“富士派大勝利”と歓声のあがることがたびたびであった。完全に日正上人の説は本多を呑み込む勝利であった。

 敗者の判定は、細密な規定を設けて決定しようとしても、本人が敗北を認めない限り、いかなる規定も規定にならない。文書にしろ、口頭にしろ、勝敗判定の困難さがここにあるのである。本論争とて例外ではない。

 では、いかなる論争も勝敗を決定できないかというと、そうでもない。一つの手がかりとして、世論の判断、すなわち聴衆の反応を挙げることができる。時として聴衆は、当事者より冷静な判断を下すことが可能だからである。

 当日の“富士大勝利”という歓声と拍手喝采は、什門敗北、富士勝利を示すバロメーターであったといえよう。
(富士宗学要集第七巻)