横 浜 問 答
 
 横浜に会員七十余名を有する身延派を信仰する蓮華会と称する小団があって、この会と大石寺末・久遠寺檀徒の本門講との間に邪正、黒白を決せんとして論争があった。問答の地名場所を当てて、これを横浜問答という。

 明治十五年八月下旬、蓮華会の会員が本門講の一員に折伏されたことがもとで、彼の会長たる田中巴之助(のちの智学、国柱会の創始者)が口頭による対決を要求してきた。本門講はこれを快諾したが、蓮華会は前言を取り消して文書による討論を要求してきたので、本門講はこれを破邪顕正の好機ととらえ受諾して、いよいよ法論が展開されることになった。
 問答に先立ち九月二十八日、双方の委員が条約書を作り、捺印の上、約書を取り交わした。条約は七箇条から成る。

一、敗者は従来の宗派を棄てて、正見なる宗派に帰住すべき事。
二、双方、人員を規定する事。
三、敗者は勝者に礼状を贈る事。
四、決着後は各新聞紙に論文の趣旨と転宗の事由を報告する事。
五、討論は必ず書面をもってし、実印を調捺する。
六、敗北しながらなお固執・偏滞するときは、その旨を新聞紙に載せ、世評を乞う事。
七、双方、答弁書は一週間内に差し出すべき事。但し、これがない時は敗者とみなし改宗すべき事。

 まず蓮華会の請求により本門講が問題を提起することとなり、十月十三日に日霑上人の筆記によって、第一本尊段、第二本尊段遮難、第三下種僧宝論、第四修行段、の四項の問題書を投じた。
 これに対し蓮華会からは、対決委員・田中巴之助、多田吉住、柴田富治の連名捺印をもって十月九日、返答を寄せてきた。以下、双方、数番の往復論争がある。本門講側からは

M15・10・3  第一号問題書
M15・10・15 第二号答弁書
M15・10・27 第三号答弁書
M15・11・8  第四号答弁書
M15・11・21 第五号答弁書
M15・12・4  第六号答弁書
の六番、蓮華会からは
M15・10・9  第一号弁駁書
M15・10・21 第二号弁駁書
M15・11・2  第三号弁駁書
M15・11・15 第四号弁駁書
M15・11・28 第五号弁駁書
の五番である。

 主な本門講からの答弁・顕揚は、宗祖を人本尊とすること、外用は上行菩薩にして内証は御本仏であること、色相荘厳仏は我等の本尊に通さないこと、大聖人は仏宝にして僧宝でないこと、二品読誦の意義などである。

 一方、蓮華会からは、宗祖は釈尊の法義を祖述したまでで末法の本仏でないこと、外相は三国四師で内相は上行菩薩であること、釈尊を意味する曼荼羅は色相仏でないこと、釈尊を仏宝、題目を法宝、宗祖を僧宝とすることなどの反論である。

 回を重ね、さらに細微に入り、内容も深まっていくが、これは要するに富士と身延の教義の対決であった。本門講の第二号から第六号までの答弁書は当時の常泉寺住職・正道院師(徳島阿闍梨正道院日樹贈上人)の筆になるもので、富士の教義が遺憾なく発揮され、凌駕(りょうが)している。

 身延と富士とでは宗是が根本的に異なるので富士の教義に感服することも理解を示すふうもなかったが、蓮華会は第五号弁駁書をもって論義を止めてしまった。それは、彼等の主張を借りていうなら「江湖の批評にまかせる」ということであったが、論義は終結しておらず、本門講からは第六号の追撃書が送られた。約書の第六条の江湖の批判を受けるとは、敗者がなおも固執する場合の処置法であり、蓮華会の態度は論義を放棄した姿を示すこととなり、理に詰まり、堕負したと解されるのである。

 その後、突然、蓮華会から口頭の法論を要求してきたが、本門講が条約に背くと詰(なじ)ると弁解し、誣言(ふげん)悪口の書状を送付して自会の敗北を防ごうとするのであった。ここに本門講は、定約に照らし十二月十四日、所断書を送って蓮華会の敗北と本門講の勝利を宣したのである。

 その所断に云く
「拝陳本講に於ては元来真正に法義討究の素志を貫徹せんと欲するにより、締盟契約に根拠し成る丈(だ)け文壇上の討究を要務と存じて亮暢(りょうちょう)完備の論書を差し贈り候処、貴会に於ては俄に本論要求の素志を失ひ其の答書之れ無し名を定約外たる口舌上の対論に託して忽(たちま)ち文壇上の討論を拒絶之れ有る段、一言以って正義真究の本志ならざるは勿論其の答書に窮迫悶乱(もんらん)せしことも亦確知せり、苟(いやしく)も条約を取り結び他と法義を討論せんと企てながら今に至りて自己の堕負を掩はんが為に卑屈の誣言を以て他を欺(あざむ)き傭作なんど、捉風捕影(そくふうほえい)の窮策を構へ本論を塗抹(とまつ)し了(おわ)らんとするは抑(そもそ)も何等の卑怯(ひきょう)拙劣ぞや、文壇上の対決は条約の基礎に付き苟も窮迫せざる以上は徹頭徹尾を相図るべき筈なるに俄に他に事を寄せ謝絶あるは何なる意ぞや寔(まこと)に貴会の卑怯未錬なる精信求法の良心を放ち失ひ仏祖の威霊を明白に欺き去る贋(がん)信徒たる段真に憫羞(びんしゅう)の至りに存じ候間後日の誡鑑として永く我本門講の記録に登載し置べく候、又手前顕の場合なれば貴会判然本論失敗堕負に皈(き)して尚我が輩を誑(たぶら)かし遁のが)るゝ者と認定候条、断然条約の第六条に照して処分方取り定め候なり」。
 なおも田中巴之助は所断書を受け取った翌日、俄に住居を転じて姿を消したという。
(富士宗学要集第七巻)