霑 志 問 答
 
 霑志問答とは、当山第五十二世日霑上人と重須本門寺日志との書簡による往復問答をいい、別名、両山問答とも志霑問答ともいう。

 文化六年五月に日量上人が著わした『富士大石寺明細誌』(俗に宝冊)に対する日志の邪難を契機に始まったものである。日志はもと要法寺の人で、重須に迎え入れられる前の明治八年六月十三日に「要法寺沙門」として『明細誌』を批判している。三年後の明治十一年八月二十二日に日志は重須本門寺第三十四世として晋山し、同年十二月五日、前書に加筆し充足して、当山第五十五世日布上人に四十九箇条からなる疑難を呈している。

 当時、富士大石寺・北山本門寺・京都要法寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺の八本山は勝劣派より分離して日蓮宗興門流と公称し、教部省の指揮のもと八山から一名、管長を推戴して一宗を統轄することになった。大石寺は、官令とはいえ、このような処置に心底から承伏できず、日胤上人は大石寺を興門派の総本寺とし、管長を任命するように請願するなど、富士の僧衆は八山協和を是認しなかった。正統を誇る当山からみて、管長輪番制など思いもよらないことであったからである。

 当時、権少教正の地位にあった日志は、孤高とした大石寺の態度を快しとせず、富士の正当意識の基は宝冊に原由があると思い、宝冊を破することが良策であると考えたのであった。

 日志の問難を受けて日布上人は同月十七日に高所から返答したが、国家などの外圧を予想して一往、宝冊を「門外不出とする」と付加した。
 その後、日志から同月二十五日に長篇の問難が寄せられ、日布上人との間に二、三回の往復問答があった。

 日布上人の健康状態が芳しくないこともあってか、日霑上人は御隠尊であったが日布上人に代わって明治十二年一月三日、新年早々に日志の数十簡の問難のうち、放置し難い箇処を摘出して返答を試みた。主な内容は、日興跡条条、戒壇の大御本尊、御灰骨等に関することである。

 一月十二日に日志より第一回目の反論がなされ、霑志問答はそれぞれ四回の往復があった。

 その間の二月七日に日志から日布上人へ謝表が届けられた。それには、福島県三春法華寺が八山の協和を破ったと批判したのは自分の間違いであったこと、有師が癩病にかかったというのは『家中抄』にあると主張したことが誣妄であったこと、多くの麁暴の悪言を吐いたことを悔悟している、ということなどであった。

 明治十二年一月二十六日と二月七日に日霑上人は書を日志に送り邪難を破折したが、日志は程なく出京したのですぐには日志からの返答はなかった。

 しかし、二月七日に日志からの二回目の間難が寄せられていたので、日霑上人は日志が帰山したのを見はからって四回目の破折書を送った。主に、本門寺の寺号を名乗れるのは当山であること、大御本尊への疑難の一掃である。

 これに対し日志から三月十五日、さらに二箇月後の五月十五日に書が届けられたが、日霑上人は全く無視されたようである。

 九月二十三日に日志は日布上人に、大御本尊への九箇条の疑難に一つでも答えてほしいと懇望しているが、日布上人は二十五日の返状に、二冊とも自分が預かっていて、日霑上人は四月中、金沢へ下向されていて不在である、と記している。日霑上人は、既に論義を尽くして決着がついているとみて、あえて反論せず、地方巡教に出向いたのてある。

 往々にして公場対決に比べ文書対決は、敗者は敗北の自覚をもち難いから、日志も屁理屈の論を寄せてきたので、日霑上人はあえて筆を執るまでもないと判断されたのであろう。
 (富士宗学要集第五巻)