「大石寺・要法寺」血脈問答
 
 本問答は、安政六年六月二十七日に当宗信徒・武内清三郎が要法寺新信徒・木村子剛に法義を語ったことに始まる。

 木村は度々、当門の加藤五兵衛宅に来て富士の教義や血脈相承の筋目を教わり、それを要法寺の同志のもとに帰って話しをすると、なかには要法寺僧・真如院智伝の説に執着する者もいたので、大石と要法との双方が対決し、邪正が明確になったところで信心を決定したいと考えていた。

 九月六日に加藤は、真如院が法論したい旨を木村からの手紙で知り、双方、二十二日を問答日と決め、対決することとなった。富士から、僧侶は玄妙房、在家は加藤五兵衛以下数名、要法寺からは真如院、岡田藤之助以下数名、その他の者は他行に付き、勝者のほうへ帰伏するという約束があった。木村は司会と進行役のようなものを務めた。場所は京都宮川町にある小間物屋の二階座敷を借り、双方そろったところで開始された。

 玄妙房が木村に向かい、仏法中で一番畏れなければならないのは謗法であるから、血脈問題よりも先に両山に謗法があるか、ないかを論じたいと申し出た。これに対し木村は、双方の疑惑は血脈の一段にあるのだから、その義だけを承りたいが、加藤氏はどう思われるかと尋ねた。加藤は両義を論じてよいと答えたので、いよいよ謗法の有無を先に論談することとなった。

★真如院云く「寛文年間の法令によって公儀は天下諸宗に自讃毀他を禁止した以上、謗法になるのではないか」。

☆玄妙房云く「当門流の折伏は自讃毀他に相当しない」。

★真如院云く「念仏無間等の説法をすれば公制を犯すことになり、折伏はできない。しかれば富士も公制を守らなければならず、謗法になる」。

☆玄妙房云く「この義は天下の謗法で、実になげかわしいことであるから、拙僧も国主諫曉を実行するつもりでいる」。

○加藤云く「寛文の公令は大石寺のみでなく天下一統の義であれば、要法寺も免れることができない」。

●木村云く「この問題は法華宗全般にわたるものでもあり、いま論じても意味がない」。

 このようにして真如院の疑難は論外となったが、大石寺はけっして布教を廃止したわけではなかった。仙台・尾張・猫沢法難などの種々の法難は、国主を恐れず敢行したために起きたのである。法令により不自由さはあったが、随一、布教を展開した教団であった。

★真如院云く「しからば永禄七年の法理一統は天下一同の謗法であろう」。

☆玄妙房云く「大石寺だけは加わらなかったので謗法でない」。
 永禄七年の規約は、日蓮宗の一致派と勝劣派との対決を解消するために両派の和睦を旨として締結されたものである。大石寺はこの和睦に加わっていなかったので、真如院の批判は的を得るものではなかった。

●木村云く「いま述べたことは国家から強いられたことであり、法義の誤りから出た謗法ではないから白黒をつけられない。よって質問をかえたい。まず大石寺は御朱印にて戴く以上、謗法の地とならないか。また、要法寺は三宝塔があり、十六山廻りなどといって他派に参詣するのは謗法でないか」。

☆玄妙房云く「大石寺の御朱印は御当代から頂戴したのでなく、当山大檀那・南条殿より寄進せられた信施なれば、あえて謗法の施でない」。

★真如院は自山の疑難には答えず「いずれにしても謗法に相違ない」。

○加藤云く「本日の法論は国家の謗法を糺明するために集まったのではないので、要法寺からの批難も無益であると思える。一同が集まったのは両家の謗法法の有無を知りたいためだから、このことだけを論じてもらいたい」。

●木村云く「実に一同もそう思われているであろう」。

○加藤云く「それでは真如院師に尋ねるが、日尊上人は造像しているが、この謗法はどうか」。

★真如院云く「上人には造仏の形跡がない。いずれの書に見えるか」。

○加藤云く「日辰の記にある。もし日辰の記にあれば謗法となるか」。

★真如院云く「辰師の記にあれば謗法となる」。
 そこで加藤は尊師が十大弟子を除いて二尊四士を造立したという祖師伝の一文を示すと、真如院は「祖師伝は日尊実録と相違するから用いられない」と言った。

○加藤云く「貴僧は先に日辰の記にあれば謗法になると言いながら、いま用いられないと言うのは前言に背くことになる。また貴僧が依憑する尊師実録は要法寺門流でも真偽未決で種々異論があり、確実なものと言えない」。

★真如院云く「拙僧が調べなかったことにより尊師の造像は気づかなかったから、後日、よく調べてお答えしたい」。

☆玄妙房云く「一同の疑蒙を晴らすためにも今すぐお答え願いたい。そのうえ、五百年来不分明なるものが、今さら調べてもなかなか回答ができるものではない」。

★真如院は「まことに調べもしないて物を言い、恥いっている。いかにも要法寺は謗法の宗である」といって頭を下げたのである。
 
 よって加藤は一同に向かい「謗法の有無はお聞きのとおりで、要法寺は負け、大石寺は勝った」と宣した。木村は尊師の造像建立の謗法法に驚き、今さら残りの法門を聞くにも及ばないが、約束どおり血脈の問題を論議するよう、うながした。

 引き続き血脈の相承・不相承を論ずることになったのである。
●木村云く「富士大石寺血脈次第日蓮日興、日目、日道となるのが正嫡か、要法寺次第日蓮、日興、日目、日尊と続くのが正統か、なにとぞ御教示願いたい。もし要法寺に血脈があるときは大石寺も要法寺も信じない。大石寺には謗法がなくとも血脈がないからであり、要法寺には謗法があるからである」。

☆玄妙房は「日興上人は二箇の相承を受けられ、身延山に七箇年お住まいになったが、地頭・波木井の謗法によりやむなく重宝を持参して南条殿の請により大石の地に戒壇の大御本尊を安置し、のち、重須に移り、日目上人に跡を譲られた」と言い、加藤は玄妙房に命じられ高声に『跡条条事』を読み上げた。
 さらに玄妙房云く「お手継御本尊と御座替り御本尊を授与して大導師職を日目上人に譲られ、日目上人はお手継御本尊の端に『日道に之れを相伝す』と加筆してある。目師遷化の後も大石寺を日道上人が中心に守護しており、正慶元年には御相承書をいただくなど、血脈は日道上人に流れている」。

★真如院云く「日目、美濃垂井で御遷化された上は、大石寺は大導師なき寺となる。ちょうど興師離山後に身延が謗地となったようなものである」。

☆玄妙房云く「身延離山の例は誤りである。それは、日興上人が離山したとはいえ、大御本尊を奉持して大石寺に移られたからである。当宗には目師の御相伝書がある上、『大石の寺は御堂といい、墓所といい』と大石寺の寺号を指して『修理を加え勤行を致すべし』と日興上人の遺誡があるが、その寺の修理を加えず、勤行もしない要法寺に血脈があるわけがない。要法寺の歴代のなかにも道心のある人は大石寺を信仰されている。日住の百囲論のなかには『月漢日総本山の御正統は実に今の富士大石寺(中略)唯我一人極秘の大事とは大石寺金口相承(中略)大石を以て大本山と為(なさ)ん、要法を以て花洛の本山と為さば豈両寺一寺の名義唐損(とうえん)ならず。尚又一天広布の日、大石を以て当職となし、要法を以て隠居とす』(研教二〇−一八一)とある」。

○加藤が「日住のように歴代のなかでも大石寺を敬っている僧もいる。なお、尊師にも本因妙抄の相伝があるが、これは他の人にもあり、これをもって大導師の相承ということはできない。日尊相伝本に奥書相承があることから別付嘱だと主張するむきもあるが、これは年代があやしいだけでなく、日尊よりの一通の奥書に三人の名前を入れてあり、これだと大導師は三人いることになってしまう。故にこの抄の相伝は別付嘱を意味するものでない」と言うと、ついに観念して真如院は「まことに仰せのとおりで、血脈相承は大石寺様に限り、有ります」と、頭を畳にすりつけて承伏する始末であった。

 木村はその様子を見て、本問答によって疑蒙を晴らすことができたことに感謝し、いさぎよく非を非と認めた真如院の姿勢をほめることを忘れなかった。このように大石寺の勝利をもって血脈相承の疑難は一蹴され、両山の対決は解決したのである。

 その後、二十八日に玄妙房を導師に迎え、九本幸祐宅で新帰伏者の参詣を得てお講が営まれ、翌月の一日には篠塚文三郎宅で新帰伏者の両親、妻等が集まり、玄妙房の法議を聴聞したのである。

 現今からみて不全の点がないともいえなくもないが、そのままにした(富士宗学要集七巻)。