『二箇相承』紛失の由来答
 
 群雄割拠する戦国時代、武田信玄は甲斐を本拠に積極的に戦いを進めていった。永禄十二年、今川征伐の際、重須本門寺と上野大石寺は信玄によって火を放たれ、諸堂を焼失したのであったが、西山本門寺と下条妙蓮寺は信玄の高札によって災厄から免れることができた。信玄の子・勝頼は、天正元年に西山に保護状を与えるなどして理解を示す、ふうであった。

 時に天正九年三月二十七日、西山日春が勝頼の印判をもって、勝頼の臣下・増山権右衛門、興国寺奉行、信者衆を伴って重須に押し寄せ、大聖人の御本尊、御書、法華経、二箇相承書等を奪い取ったのである。これらの重宝がそのまま西山に移管されれば紛失せずに済んだのであるが、甲州に山越えし、勝頼の管理下に置かれてしまった。

 当時の重須の長は日殿であった。日殿は保田日我師の高弟で、小泉久遠寺代官の要職にあったが、破門されて重須に移り、元亀三年、日出より北山を継承している。

 日殿は翌日、重宝を取り戻さんと返還の訴状を甲府の奉行に提出し、自ら出府したのであるが許用されなかった。また門中一同が団結して訴訟を試みたが、少しも取り上げられなかった。

 このため日殿は、天正十年正月一日に意を決して堂に籠り、宗祖の正御影の前に端座して宝物還住を祈願し、願が成就するまで断食すると誓い、ついに二月六日、憤死している。しかし、日殿の願いも空しく、宝物は還ってこなかった。日殿、五十七歳の時である。

 日殿の死により日出が、八十八歳の高齢であったが再住した。折しも天正十年二月末、織田信長が勝頼を征伐する際、徳川家康は武田追討に加わり、北山に陣屋を張った。

 北山の伝承によれば、家康の家臣・大久保新十郎が武運長久の祈頑を日出に依頼し、日出は宗祖御直筆の御本尊を陣中守護に献じたことにより、家康は交戦中、鉄砲の難を逃れる事ができたという。また、五月、家康が帰陣の途中、前の御本尊を返すために北山に立ち寄ることになり、日出は対面する機会を得た。このとき日出は、重宝紛失の顛末、日殿憤死を詳しく語り、重宝返還の取り計らいを請うたという。

 しかし家康は、重臣の本多作左衛門に命じ、武田方押奪の重宝を北山でなく西山に寄進しているが、多くの散逸があったのである。

 これより先、西山日春は三月十一日、勝頼が天目山麓に一族と滅んだために甲府惣檀方へ書を送り、二箇相承書の返還を促している。しかし、武田一族が滅亡するに及び、重宝類は散乱し、二箇相承書は行方知れずになってしまった。当然、西山に還った宝物中にも二箇相承書はなかった。

 その後、同年、徳川家康の命により本多弥八郎が、一度西山に納めた宝物六十四点を重須に返し、さらに翌年、平岡岡右衛門が残りを西山から重須に返還させて、一往この騒動は、本来の持ち主である北山に還って落着している。

 二箇相承書は、日春の誑惑により失って以来、今日に至るも発見できないが、あるいはどこかに、人知れず存在するのかもしれない。しかし、御真筆の発見を今後の期待にかけるとしても、その写本が当門流に存在するのは幸いなことである。

 二箇相承を偽作としたい他山の人もいるが、それは問題にならない。当門流に大聖人以来の血脈相承がなされていること自体、二箇相承書は目前に存在していることを示すものである。