砂 村 問 答
 
 江戸後期に誕生した永瀬清十郎は宗学に通じ、弘教の志あつく諸国に弘通していた。清十郎は尾張の布教後、会津若松に来て論陣を張った。身延、什門、隆門等、日蓮宗の在家、出家を一堂に集め「富士大石寺こそ最も正当な宗旨で、他は全部、宗祖大聖人の教えに反した誤っている宗派だ」と、堂々と演説したのである。

 それを聞いた者達は心中、殺意を抱きながら対応策を種々相談したのであるが、三年程前に日量上人が当地へ下向された際、さんざんに折伏されて閉口した苦い経験があったので、なかなか名案が浮かばなかった。しかし、幸い江戸・砂村に住む篠原常八という者が会津に来ていたので、彼の教学力を借りて清十郎と問答させ、富士派を打ち負かそうということになった。

 常人は「糖屋」という屋号をもつ町人で、近ごろ身延の信仰をもつようであった。この時分、会津藩は治安が悪く世上不安な時であったが、両名は不惜身命の御金言を体し、問答することとなった。双方五名ずつの立ち会いを認めて論争が始まったのである。

 問答は一方的で、本迹一致は大僻見、延山無間をとの主張に常八は全く反論できず、清十郎の勝利に終わった。そのため街には、一致派は敗れ、富士大石寺が勝ったという評判が流れた。

 翌日、常八はくやしさの余り仲人を立てて問答を再三申し込んだが、清十郎は勝敗がはっきりしていたので取り合わず、自分が折伏した講中のいる二本松に向かったのである。常人は“今度こそ清十郎を理詰めしてやる”と思い、永瀬清十郎を追いかけて佐渡、越後、奥州まで足を運び、やっと清十郎が二本松に逗留している由を聞いてさがし出し、再び問答することになった。

 論争は主に本迹問題、本尊論、袈裟・衣の色に及んだが一々論伏され、常八は富士の教義に感服し、しまいには落涙し、清十郎を三拝して当家の「二品読誦」や「二箇相承」などの教えを請う状態であった。この問答を機に常八は入信し、江戸・砂村に帰って一段と信仰を深め、折伏に励んで講中をつくっていったのである。

 こうなるとおもしろくないのは身延派で、常八に法論を申し込んできた。常八はこれを受けて立ち、敗者は改宗する旨の約束を交わした。

 彼の門流は五十日余り、富士と問答できる人をさがしたが、僧俗ともに富士門に向かって勝負しようという人がいなかった。ようやく成瀬玄益という者がその任に当たることになったが、この人は以前に三度程法論に負けている、無惨な者であった。砂村の身延の信者はこのことを知らず“宗祖大聖人の再誕なるべし”と尊信し、両国の柏屋という茶屋において問答することに決定したのである。

 問答には、彼等の希望により常八の折伏の親たる永瀬清十郎が出向き、双方二、三百人ずつの信徒を含め、六、七百人の聴衆が集まった。一身に期待を背負った成瀬玄益が南の上座、清十郎が北の下座に位置し、世話人五人、執筆一人ずつ臨席した。

 わずかの問答で案の定、世話人が一同に成瀬玄益の負けを宣し、あっけない幕切れであった。この結果、江戸中に富士大石寺が勝って身延が負けたという風評が伝播したのである。

 この風評を聞くにつけ、砂村の身延の信者は残念に思い、清十郎に勝つことができなくともせめて常八を論伏し、日頃の恨みを晴らしたいと企んだが、だれ一人として名乗り出る者がいなかった。

 そんななかに、身延の信者で梶柔之助という者が処々に一致を弘通していることを知り、再三接触して「都合よく清十郎は大石寺に行って不在でありますから、今のうちに問答して常八をやっつけてください。そうすれば今までの雪辱を晴らすことができましょう」と問答を依頼したのである。

 これを受けて柔之助は砂村に来て大勢、人を集め、富士大石寺批判を始めたのである。聴衆のなかには「梶先生こそ仏菩薩の再来である。たとえ清十郎とても梶先生には及ぶまい」と称讃する有様であった。

 これを聞き砂村の講中ははなはだ憤りを覚えたが、清十郎が不在のため、どうしようかと思案していた。常八は「永瀬様がいなくとも、三大秘法を頭に戴き、不惜身命の信力を発すならば、必ず信心の力で邪法を砕くことができる」と確信して問答に臨んだのである。柔之助は放逸(ほういつ)に十箇条にわたって難問を申し掛けてきたが、常八は「不審の点が多くあるが即答できるか」と問うたところ、柔之助は「不審な点があるなら文書にして出すべし」と答えたため、双方が退出し、四日後に再び法論をすることになった。

 法論の当日、同志の者が集まって色色談合していると、ひょっこり清十郎が顔を見せた。同志は顔を見合わせて喜び「不思議なことだ、三宝様のお使いだ、勝利の前兆である」と喜悦したのである。

 常には既に柔之助が座していて、後に常八が清十郎と同道して来たので、四、五百人の聴衆の顔色も変わったということである。こうなると法論の時敗は決定的であり、柔之助は一つひとつ論難され、完敗であった。

 篠原常八はこの問答を契機になお一層、信心に励むようになったのである。

 この出来事は「砂村問答」といわれ、永瀬清十郎が天保六年十月に記録したもので、それをもとに紹介したのである。