教えのやさしい解説

大白法 527号
 
身軽法重・死身弘法(しんきょうほうじゅう・ししんぐほう)
「身軽法重・死身弘法」の語(ご)は、中国の章安(しょうあん)大師の涅槃経疏(しょ)(まき)十二の『菩薩品第十六』に説かれる文で、「身は軽(かろ)く法は重し、身を死して法を弘(ひろ)む」と読みます。
 衆生の身は軽く、弘むべき法は重いゆえに、身命を賭(と)して仏法を弘めなければならないという、折伏弘教(ぐきょう)の精神を示した語句です。
 日蓮大聖人は『松野殿御返事』に、
 「迹門には『我(われ)身命を愛せず但(ただ)無上道を惜(お)しむ』ととき、本門には『自ら身命を惜しまず』ととき、涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死して法を弘む』と見えたり。本迹(ほんじゃく)両門・涅槃経共(とも)に身命を捨てゝ法を弘むべしと見えたり。等の禁(いまし)めを背(そむ)く重罪は目には見えざれども、積(つ)もりて地獄に堕(お)つ」(御書一〇五一)
と仰せられているように、法華経迹門の『勧持品(かんじほん)第十三』に説かれる、
「我不愛(がふあい)身命 但惜(たんしゃく)無上道」(新編法華経 三七七)
の文と、本門の『如来寿量品第十六』に説かれる、
 「不自惜身命」(同 四三九)
の文、さらに涅槃経(疏)に説かれる「身軽法重・死身弘法」の文を引いて、身命を捨てて法を弘めなければならないことを説かれています。しかも、この仏の戒(いまし)めに背くことは重罪であり、それは堕地獄の業因(ごういん)であることを説かれています。
 また「身軽法重・死身弘法」の譬えを前掲(ぜんけい)の『松野殿御返事』には、
 「雪山(せっせん)童子の古(いにしえ)を思へば、半偈(はんげ)の為に猶(なお)命を捨て給ふ。何(いか)に況(いわ)んや此(こ)の経の一品・一巻を聴聞せん恩徳(おんとく)をや。何(なに)を以(もっ)てか此(これ)を報ぜん。尤(もっと)も後世(ごぜ)を願はんには、彼(か)の雪山童子の如(ごと)くこそあらまほしくは候へ(中略)我が身命を捨(す)て仏法を得(う)べき便(たよ)りあらば、身命を捨てゝ仏法を学(がく)すべし」(御書一〇五〇)
と説かれています。
 仏法の半偈を聞くために、羅刹(らせつ)(鬼)に身を投(とう)じた雪山童子の不惜身命の行為とその求道心こそ、「身軽法重・死身弘法」であり、末法濁悪(じょくあく)の世(よ)に正法(しょうぼう)を弘通する精神であることを御指南されているのです。
 『乙(おと)御前(ごぜん)御消息』には、
 「身軽法重、死身弘法とのべて候へば、身は軽(かろ)ければ人は打ちはり悪(にく)むとも、法は重ければ必ず弘まるべし。法華経弘まるならば死かばね還(かえ)つて重くなるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生(りしょう)あるべし」(同 八九八)
と説かれています。
 私たちは、種々の法難や迫害(はくがい)に遭(あ)いながら、死身弘法の精神で正法を弘通していくことが、自らの懺悔(ざんげ)滅罪(めつざい)の行法(ぎょうほう)であることを知り、さらにその功徳によって、軽いはずの凡夫の身も、法と同じく、重く尊いものになることを知らなければなりません。
 広宜流布大願成就(じょうじゅ)と、即身成仏の大利益を得(え)るために、自他(じた)共に身軽法重・死身弘法の折伏行に精進してまいりましょう。