教えのやさしい解説

大白法 551号
 
懺悔滅罪(さんげめつざい)
 「懺悔滅罪」とは、仏前(ぶつぜん)において自分の犯した罪過(ざいか)を正直に披瀝し、二度と同じ過ちを犯さないことを誓って許しを請(こ)うことであり、同時に自身の罪障消滅のため、正しい信仰によって真剣に仏道修行に精進することをいいます。

 懺悔滅罪の意義と功徳
 語源を播(ひもと)くと、「懺(さん)」はサンスクリット語の懺摩(クシャマ)の音訳、忍の意で、「悔(げ)」はその意訳で、追悔・悔過とも称し、罪を悔い告白して謝することをいいます。
 世にいう「懺悔」は、キリスト教の専売特許のような印象を与えています。しかし、これはペニテンスという語(後悔・悔俊)をそのまま懺悔に置き換えたものであり、実体は自己の罪に対する悔俊(かいしゅん)の儀式にしかすぎず、それは空虚(くうきょ)な形式でしかありません。
 それに対して仏教では、古くは「布薩(ふさつ)」と呼ばれる集会を半月ごとに開き、戒を破った者が大衆と僧の面前で懺悔するという形をとり、心から罪への反省と浄化を図(はか)ることを目的として行われ、その懺悔の儀則や滅罪の相、その功徳は各経典に種々説かれています。特に涅槃経に示される阿闍世王(あじゃせおう)の懺悔改心の話は有名です。慈父(じふ)殺害等の大逆罪の報(むく)いによって全身に悪瘡(あくそう)を現じて死の宣告を迫られた阿闍世王は、仏に懺悔して過去の数々の悪業を詫(わ)び、改心と勇猛精進を誓ったことによってたちまちに悪瘡は治癒(ちゆ)し、さらに四十年の寿命を得ました。これは『富木尼御前(ときあまごぜん)御書』に、
 「阿闍世王は法華経を持ちて四十年の命をのべ」(御書 九五五n)
とあるように、『寿量品』に説かれた更賜(きょうし)寿命の現証であり、実に阿闍世王が釈尊の説法の会座(えざ)に連(つら)なった法華信仰の功徳によるものと言えます。
 また、世親(せしん)も五百部の小乗の論を造って大乗を誹謗(ひぼう)しましたが、兄の無著(むじゃく)にあって破折され、自らの舌を切ってその罪を滅せんとしました。しかし、無著から「汝その舌をもって大乗を讃歎(さんたん)せよ」と諭(さと)され、以後世親は『法華論』等の五百部の大乗の論を造って小乗を破し、大乗興隆に努めました。
 さて、天台大師の『摩訶(まか)止観』に、四種三昧(ししゅざんまい)という修行に打ち込む者が日夜に修すべき五種の法華懺法「五悔(ごげ)」が説かれています。
 @に懺悔。過去の所行・罪過を慚愧(ざんき)して発露(はつろ)し、相続心(執心)を断つ。
 Aに勧請(かんじょう)。懺悔の決意に対して如来の大慈悲の力を祈り求める。
 Bに随喜。他人の善根を喜ぶ。
 Cに回向(えこう)。自らのなし得た善根を回して菩提(ぼだい)に向かわしめる。
 Dに発願(ほつがん)。堅固な誓願を発(おこ)して修行の退転を防ぐ。
 以上の「五悔」を法華経修行の助行方便として日夜に修すれば、その功徳は無量であると説かれています。

 自行化他の題目こそ事・理の懺悔滅罪
 また『摩訶止観』には、懺悔に事理(じり)の二種があることを説いています。事懺とは礼拝(らいはい)・誦経など身・口・意の行為に顕した懺悔で、仏教一般の懺悔はすべてこれに当たります。そして理懺は実相の理を観じて罪を滅する懺悔で、精神的に深く懺悔の念を湧(わ)き出だすことが求められるために懺悔の根本行とも言えます。
 この懺悔の根本行を修するためには、まず過去・現在・未来の罪業の生じた原因を知らなければなりません。普賢経(ふげんぎょう)には、
 「一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐(たんざ)して実相を思え 衆罪は霜露(そうろ)の如し 慧日(えにち)(よ)く消除す」(法華経 六四八n)
とあり、あらゆる罪業は妄想から生じているため、その罪を懺悔しようと欲するならば、実相を思惟(しゆい)して智慧を明らかにしなければならないと説かれています。
 日蓮大聖人は、この経文を釈して『御義口伝(おんぎくでん)』に、
 「衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し。然りと雖も慧日を以て能く消除すと云へり。慧日とは末法当今日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり」
(御書 一七九九n)
と説かれています。
 すなわち、末法にあっては日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊に対し奉り、自行化他に亘る題目を日夜、口唱(くしょう)精進するとき、衆罪の根源たる無始(むし)以来の謗法の罪業は瞬時に滅除(めつじょ)して、事理の懺悔を共に成就することができるのです。
 しかし『神国王(しんこくおう)御書』に、
 「懺悔の力に依りて生死はなれけむ。将又(はたまた)謗法の罪は重く、懺悔の力は弱くして、阿闍世王・無垢論師(むくろんし)等のごとく地獄にや堕ちにけん」(同 一三〇三n)
と仰せのように、謗法という大罪には相当に強い懺悔がなければ出離(しゅつり)生死は叶いません。故にこそ『顕謗法抄(けんほうぼうしょう)』に、
 「懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況んや懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出づる期(ご)かたかるべし」(同 二七九n)
と、過去の謗法重罪の深さを実感しつつ、常に自ら戒めていくべきことを御教示されているのです。昨今の創価学会のように、
 「懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし」(同 二七四n)
と執心翻(しゅうしん ひるがえ)らず、懺悔の心も持たず、もっぱら正法誹謗を繰り返すならば、もはや無間地獄に堕するほかあり得ません。毒鼓(どっく)逆縁の徒として改めて懺悔滅罪を図(はか)るしかないでしょう。
 私たち日蓮正宗僧俗は、まず自らの罪障消滅を祈念して即身成仏を期し、進んでは一切衆生済度(さいど)のため、昼夜順逆(じゅんぎゃく)を問わずに折伏弘教に励んでいくことが懺悔の修法と心得るべきです。
 『三大秘法抄』に、
 「三国並びに一閻浮提(いちえんぶだい)の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり」(同 一五九五n)
と仰せのように、大御本尊在(ましま)す所こそ真の懺悔滅罪の戒法、根本道場です。私たちは本門戒壇の霊場への道案内として多くの人々を折伏・育成していきましょう。