大白法 467号 |
女人成仏(にょにんじょうぶつ) |
女人(にょにん)成仏とは、女性の成仏をいいます。古来、インドでは、女性の地位は低くおかれ、浄土に女性はいないと考えられていました。 この考え方は、仏教にも影響しました。『大智度論(だいちどろん)』には女鎖(にょさ)とか女賊(にょぞく)という言葉が見られます。女鎖とは、女性は人を束縛(そくばく)して脱離(だつり)しがたいということ、女賊とは、女性は愛執(あいしゅう)の根本であり、求道心(ぐどうしん)を害する者である、という意味です。 『女人成仏抄』に、 「女人成仏の事は此(こ)の経より外(ほか)は更(さら)にゆるされず、結句爾前(にぜん)の経にてはをびたゞしく嫌(きら)はれたり。されば華厳経(けごんぎょう)に云はく『女人は地獄の使(つか)ひなり、能(よ)く仏の種子を断ず、外面(そとづら)は菩薩に似(に)て内心は夜叉(やしゃ)の如し』云云。銀色女経(ごんじきにょきょう)に云はく『三世の諸仏の眼(まなこ)は大地に堕落(だらく)すとも、法界(ほうかい)の諸(もろもろ)の女人は永(なが)く成仏の期(き)無し』云云。或(あるい)は又(また)女人には五障三従の罪深(つみふか)しと申す」 (平成新編御書 三四五頁) とあるように、爾前経(にぜんぎょう)においては、女人は仏道を害する者であると徹底(てってい)して嫌われ、成仏は許(ゆる)されない身と説かれました。すなわち、女人は地獄の使い、仏の種子を断ずる者、さらには五障三従の者と言われたのです。五障とは、女人には、一に梵天王(ぼんてんのう)、二に帝釈(たいしゃく)、三に魔王、四に転輪(てんりん)聖王(しょうおう)、五に仏になることができない五つの障害をいいます。そして三従とは、幼時(ようじ)未婚(みこん)の時には父親に服従(ふくじゅう)し、稼(か)しては夫(おっと)に従い、老(お)いては子に従うべきであるという考え方です。 ところが、爾前経の中でも、『無量寿経』には阿弥陀仏の女人往生(おうじょう)が説かれ、また他の大乗(だいじょう)経典にも、女人は長い期間をかけて修行すれば男子(だんし)となって成仏することができる(改転の成仏)と説かれているように、大乗経典の一部では女人成仏が許(ゆる)されています。しかし、それらの成仏は「未顕(みけん)真実」であり、一念三千の即身成仏ではないので有名(うみょう)無実の成仏なのです。これに対し『法華経』は、女人と同じように成仏されないと説かれていた二乗(にじょう)が作仏(さぶつ)して一念三千が確立しています。しかも『提婆達多品(だいばだったほん)』には、 「忽然(こつねん)の間に変(へん)じて男子と成(な)って、菩薩の行を具(ぐ)して、(乃至)等正覚(とうしょうかく)を成(じょう)じ、三十二相(そう)、八十種好(しゅこう)あって、普(あまね)く十方(じっぽう)の一切衆生の為に、妙法を演説(えんぜつ)す」(開結 四三三頁) とあるように、竜女(りゅうにょ)の即身(そくしん)成仏の現証が説かれているのです。これは『開目抄』に、 「竜女が成仏、此(これ)一人(いちにん)にはあらず、一切(いっさい)の女人の成仏をあらわす」(平成新編御書 五六三頁) とあるように、竜女の成仏は決(けっ)して竜女一人(いちにん)の成仏ではなく、一切女人の成仏であり、十界(じっかい)の一切衆生の成仏を明(あ)かしているのです。 法華経迹門(しゃくもん)の竜女の成仏は、「変成(へんじょう)男子(なんし)」とあるように、熟脱(じゅくだつ)の仏法における改転の成仏の相(そう)を示していますが、本門から立ち還(かえ)って見れば、竜女は女身(にょしん)のままに即身成仏を遂(と)げたのです。 『妙法曼陀羅(まんだら)供養事』に、 「此(こ)の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(おんし)、一切の女人の成仏の印文(いんもん)なり」(平成新編御書 六八九頁) とあるように、末法における女性の即身成仏は、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と至信(ししん)に題目を唱えることによってのみ叶(かな)えられるのです。 |