教えのやさしい解説

大白法 531号
 
念仏無間(ねんぶつむけん)
『御義口伝(おんぎくでん)』に、
 「念仏無間・禅天魔(ぜんてんま)・真言亡国(しんごんぼうこく)・律国賊(りつこくぞく)」(御書 一七二四n)
とあるように、「念仏無間」とは四箇(しか)の格言(かくげん)の一つで、浄土宗・浄土真宗等の阿弥陀仏を信ずる宗旨(しゅうし)が無間地獄の業因であることをいいます。
 念仏宗は、阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経の浄土三部経を依経(えきょう)とし、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名号を称(とな)え念ずれば阿弥陀如来の住む西方極楽浄土に往生(おうじょう)すると説きます。
 この念仏の教義の誤りは、無量義経に、
 「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三n)
と説かれた爾前(にぜん)の方便教である浄土三部経を依経として念仏の往生を説き、「最も第一」である法華経を誹謗(ひぼう)しているところにあります。
 つまり、中国の浄土宗の開祖である曇鸞(どんらん)は、釈尊の一代聖教を難行道と易行道とに分け、浄土宗は易行、法華経は難行と誹謗しました。曇鸞の後を継いだ道綽(どうしゃく)は、一代聖教を聖道門と浄土門とに分け、法華経は聖道門で千中無一(千人が修行しても一人も成仏できない)、浄土宗のみが浄土門で百即百生(百人が念仏すれば百人とも往生できる)などと主張し、次の善導(ぜんどう)は正行・雑行の二行を立て、正行たる浄土教は十即十生・百即百生、浄土教以外は雑行で千中無一・未有一人得者(未だ一人も得道した者がいない)等と口を極めて詈(ののし)りました。また、日本に浄土宗を開いた法然(ほうねん)は曇鸞等の邪義を踏襲(とうしゅう)した上で、法華経を「捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげす)て」と誹謗(ひぼう)したのです。
 これらの邪師の邪説に対し、日蓮大聖人は『当世念仏者無間地獄事』に、
 「三師並びに法然此の義を弁(わきま)へずして、諸行の中に法華・涅槃並びに一代を摂(しょう)して末代に於て之(これ)を行ぜん者は千中無一と定むるは、近くは依経に背き遠くは仏意に違ふ者なり」(御書 三一八n)
と破折されています。すなわち正法たる法華経を誹謗する念仏の教えは、近くは依経である無量寿経の「念仏を称える者は極楽浄土に迎えるが、五逆と誹謗正法の者は除く(趣意)」という阿弥陀如来が因位の法蔵比丘(ほうぞうびく)の時に立てた四十八願に背反(はいはん)しています。さらに遠くは、法華経譬喩品第三』の「此の法華経を信ぜずして誹謗する者は命終して阿鼻地獄に堕ちる(趣意)」との文に当たるゆえ、仏意に違う失(とが)によって無間地獄は疑いありません。
 大聖人は『題目弥陀名号勝劣事』に、
「近来の念仏者並びに有智の明匠とおぼしき人々の、臨終の思ふやうにならざるは是大謗法の故なり」(同 三二九n)
と、念仏者の臨終が悲惨であるという現証からも厳しく破折されています。
 念仏の邪義は、人々を無間地獄に堕(お)とす一凶です。私たちは、念仏の害毒によって苦しんでいる人々を救済するため、そして念仏者が穢土と嫌う娑婆世界を浄化し、仏国土を建設していくためにも、念仏宗等の邪宗を折伏していくことが肝要です。