教えのやさしい解説

大白法 432号
 
十四誹謗(じゅうしひぼう)
 十四誹謗とは、法華経譬喩品(ひゆほん)に説かれた、正法(しょうぼう)に対する十四種(じゅうよんしゅ)の誹(そし)りをいいます。
 日蓮大聖人は『松野殿御返事』の中に、
 「有る人此(これ)を分(わ)かって云(い)はく『先(さき)に悪因を列(つら)ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に驕慢(きょうまん)・二に懈怠(けだい)・三に計我(けが)・四に浅識(せんしき)・五に著欲(じゃくよく)・六に不解(ふげ)・七に不信(ふしん)・八に顰蹙(ひんじゅく)・九に疑惑(ぎわく)・十に誹謗(ひぼう)・十一に軽善(きょうぜん)・十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり』」(平成新編御書 一〇四六)
と、妙楽(みょうらく)大師湛然(たんねん)の法華文句記(もんぐき)を引いて十四誹謗の名目(みょうもく)を挙(あ)げられています。
 一に驕慢とは、正法に対して驕(おご)りあなどること。二に懈怠とは、仏道修行を怠(おこた)ること。三に計我とは、正法を自己(じこ)の考えで推(お)し量(はか)り我見(がけん)に執着(しゅうちゃく)すること。四に浅識とは、正法を自己の浅い知識で判断し、より深く求めないこと。五に著欲とは、欲望に執着して正法を求めないこと。六に不解とは、正法を理解しようとしないこと。七に不信とは正法を信じないこと。八に顰蹙とは正法に対して顔をしかめ非難(ひなん)すること。九に疑惑とは、正法を疑い惑(まど)うこと。十に誹謗とは、正法を誹ること。十一に軽善とは、正法を信受(しんじゅ)する者を軽蔑(けいぶ)すること。十二に憎善とは、正法を信受する者を憎(にく)むこと。十三に嫉善とは、正法を信受する者を嫉(そね)むこと。十四に恨善とは、正法を信受する者を恨むことをいいます。
 この十四誹謗を犯した者の罪報(ざいほう)は、法華経の『譬喩品』に、
 「常に地獄に処(しょ)すること 園観(おんかん)に遊ぶが如く 余(よ)の悪道に在(あ)ること 己(おの)が舎宅(しゃたく)の如く」(開結 二四五)
とあるように、常に地獄等の悪道の罪報を受けることになります。しかも同品(どうほん)には、仮(かり)に人として生命を受けたとしても、物質的困窮(こんきゅう)、病気なとの報(むく)いを受け、永(なが)く不幸を招(まね)かなければならないとも説かれています。
 大聖人は同『松野殿御返事』に、
 「此(こ)の十四の誹謗は在家(ざいけ)出家に亘(わた)るべし、恐るべし恐るべし」(平成新編御書 一〇四六)
と、十四誹謗は僧俗共に通じる謗法(ほうぼう)であると仰せです。僧侶と信徒、またはそれぞれの間で、ややもするとお互(たが)いの悪口(わるくち)を言ったり、軽蔑(けいぶ)したり、時には恨んだりしてしまうことがあるかもしれません。もし、十四誹謗の心があるならば、御本尊の功徳(くどく)を自(みずか)ら破(やぶ)るばかりか、この悪因(あくいん)によって、破和合僧(はわごうそう)が生(しょう)じ、ひいては広宣流布(こうせんるふ)の妨(さまた)げとなってしまうのです。
 特に『念仏(ねんぶつ)無間(むけん)地獄抄』に、
 「譬喩品十四誹謗も不信を以(もっ)て体(たい)と為(な)せり」(平成新編御書 三九)
とあるように、不信謗法こそ十四誹謗の根本です。すなわち、御本尊を心底(しんそこ)から信ずるならば、自らの十四誹謗を打ち破り、他(た)に紛動(ふんどう)されない成仏の境界(きょうがい)を開(ひら)くことができます。
 私たちは本門(ほんもん)戒壇(かいだん)の大御本尊が、唯一(ゆいいつ)絶対の正法であると深く信じ、師弟相対(していそうたい)の信心のもと、僧俗それぞれが尊敬(そんけい)の念(ねん)をもって接(せっ)し、十四誹謗を誡(いまし)めて正直に信心に励むことが大切なのです。