教えのやさしい解説

大白法 573号
 
浄蔵・浄眼(じょうぞう・じょうげん)
「浄蔵・浄眼」とは、法華経の『妙荘厳王(みょうしょうごんのう)本事品第二十七』に出てくる二人の兄弟の名で、二人の兄弟が母・浄徳と共に、外道(げどう)の教えに執着(しゅうちゃく)している父・妙荘厳王を仏道に帰依(きえ)させた話が説かれています。

 父を救った浄蔵・浄眼
 この『妙荘厳王本事品』の内容を意訳(いやく)すると、次のようになります。
 過去無量無辺(むりょうむへん)の昔に雲雷音宿王華智仏(うんらいおんしゅくおうけちぶつ)という名の仏がおり、その国を光明荘厳(こうみょうしょうごん)と言い、時代を喜見(きけん)と言います。その国には妙荘厳王という名の王がおり、その王には浄徳という名の夫人と、浄蔵・浄眼という名の二人の子供がいました。
 浄蔵・浄眼の二人は、大神カ・福徳・智慧があり、雲雷音宿王華智仏のもとで長い間菩薩の修行をして大きな功徳を得ていました。
 ある時、仏様は妙荘厳王を仏道に引導し、また衆生を利益するために法華経を説かれました。すると二人は、母にも法華経を聞くよう進言しました。母は「あなたたちの父・妙荘厳王は外道の教えにとらわれているから、まず二人で父の所に行き、種々の神変を示して教化(きょうけ)しなさい。そうすれば、父はその神変に感心し、必ずや仏様の所へ詣(もう)でることができるであろう」と言いました。
 母の助言(じょげん)を受けた二人は、父の前で空中を歩いたり、空中で止まったり、座ったりと、種々の神変を示すと、その神変を見た父は大いに歓喜し、「二人の師匠は誰か、自分もその元へ行きたい」と自ら申し出ました。そして、父は浄徳夫人や浄蔵・浄眼と共に、多くの眷属(けんぞく)を連れ、仏所(ぶっしょ)に詣でました。
 これを御覧になられた仏様は、王のために法を説き、父・妙荘厳王に沙羅樹王(しゃらじゅおう)という仏に成ることを授記(じゅき)されました。それを聞いた父は、夫人と浄蔵・浄眼の二子と諸の眷属と共に出家して三昧(さんまい)を得、法華経を聴聞(ちょうもん)して成仏するに至るのです。
 また、この四人の家族には過去世の仏道の因縁があります。
 ある所に四人の比丘(びく)がおり、そのうちの一人は皆の身の回りの世話をし、後の三人は仏道修行に専念していました。修行していた三人は法を得(え)ることができましたが、世話をしていた一人は修行をしていないので法を得ることができませんでした。
 そこで三人は、この人を救うことを誓願(せいがん)しました。そして、世話人がこの果報により、妙荘厳王として生まれ、一人は浄徳夫人となり、後の二人は浄蔵・浄眼となって、この王を成仏に導くことになるのです。
 そして、妙荘厳王は法華経の会座(えざ)において華徳菩薩、浄徳夫人は光照荘厳相菩薩、浄蔵・浄眼は薬王・薬上菩薩として法華経を聴聞して随喜の心を発(おこ)し、ついに即身成仏の大功徳を成就したのです。
 このように本来、親子、妻子、眷属等は、共々に仏道増進して成仏の直道を歩むべき大因縁があるのですから、誓願を立てて、これらの人を仏道に導くことが大切です。

 池上(いけがみ)兄弟にみる「真の孝養」
 さて、宗祖日蓮大聖人は、
 「彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王、外道の法に著(じゃく)して仏法に背(そむ)き給ひしかども、二人の太子は父の命に背きて雲雷音王仏の御弟子となり、終に父を導きて沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは不孝の人と云ふべきか(中略)今生の恩愛をば皆捨てゝ仏法の実の道に入る、是実に恩をしれる人なりと見えたり」(御書 四〇一n)
と、親の命に背いても信心を貫(つらぬ)き通し、そして親をも仏道に帰依させることこそ、真実の報恩であると仰せになられています。
 そして、池上宗仲(むねなか)・宗長(むねなが)兄弟に対して、
 「浄蔵・浄眼の二人の太子の生まれかわりてをはするか、薬王・薬上の二人か」
 (同 九八四n)
と、浄蔵・浄眼の生まれ変わりかと仰せです。この池上兄弟も、浄蔵・浄眼のように、父親が邪宗の極楽寺良観の教えに執着しており、そのために父・康光に猛反対を受けながらも信仰しておりました。
 その兄弟に対して、大聖人は、
 「一切はをやに随ふべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か」(同 九八三n)
と仰せられて、仏道修行を遂(と)げて自分自身が仏の境界を得ること、そしてそこから親を導くことこそ真の親孝行であり、真実の報恩であると御指南されています。
 こうして池上兄弟は、大聖人の御教導による異体同心(いたいどうしん)の信心によって、ついに二十年にもわたる猛反対の父・康光を、大聖人に帰依させることができたのです。

 魔に誑(たば)かされず身近な人を折伏しよう
 折伏の縁は人によって様々ですが、浄蔵・浄眼や池上兄弟のように、特に身近な親・兄弟・夫婦等が信心していないことは、信仰者にとってたいへんな悩みです。「大切な人だからこそ折伏したい」との願いは、私たち日蓮正宗の僧俗の本心であり、悲願です。
 天台大師は『摩詞止観』に、
 「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔(さんしょうしま)紛然として競ひ起こる」
と述べられ、また大聖人は『兄弟抄』に、
 「又第六天の魔王或は妻子の身に入って親や夫をたぼらかし(中略)或は父母の身に入って孝養の子をせむる事あり」(御書 九八〇n)
と仰せです。正法(しょうぼう)を行ずれば、そこには必ず魔が競い起こり、その魔は身近な人に入って退転(たいてん)させようとします。しかし、私たちはそのような魔に誑かされることなく、大誓願のもと、それらを善知識と受け止めて精進することが肝要です。
 『御義口伝(おんぎくでん)』に、
 「今日本国の一切衆生は邪見にして厳王なり。日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は三人の如し」(同 一七九二n)
とあります。
 私たちも、浄蔵・浄眼と浄徳夫人の母子のように、自分の親はもちろんのこと、一人でも多くの人々を折伏すべき誓願を立ててこれを貫徹し、明年の宗旨建立七百五十年の大佳節に向かい、日々精進してまいりましょう。