げん ちゅう じ
玄 中 寺
画像が欠落の場合は「更新」を押して下さい 
大日蓮より抜粋 
  
 創立150周年記念法要並びに御霊宝虫払会
 十月五日午前十一時より、青森県八戸市の玄中寺(楠牟礼慈宝住職・青森布教区宗務支院長)において、同寺の創立百五十周年記念法要ならびに御霊宝虫払会が厳粛かつ盛大に奉修された。
 同寺は、文久元(一八六一)年十月十九日、八戸藩第九代藩主・南部信順公の発願により、総本山第五十一世日英上人を開基として建立された。
 また、ここに至るまで「八戸法難」という苦難の道のりがあった。
 そもそも、奥州八戸の布教は仙台市若林区・仏眼寺の玄妙房日成師の弘教に始まる。そして、この玄妙房日成師の教化に浴した阿部喜七氏と阿部豊作氏の果敢な折伏によって、当地に本宗信徒が次第に増えていった。
 しかし、阿部氏等の折伏逆化によって大石寺の信仰が弘まったことで、怨嫉の念を抱いた法華宗什門派の本寿寺住職および信徒の画策により、藩主・南部信真公に、ありもしない、悪意に満ちた訴状が提出された。
 こうした謗徒の策略により、玄妙房日成師を領外に追放、阿部氏等の本宗信徒七名を入牢にするという暴挙が行われた。
 さらに入牢赦免後、主犯者と目された阿部喜七氏のみが領外追放に処せられると、阿部氏は大石寺へ向かい、日英上人を師匠と仰ぎ、出家して泰雄房日承と称した。
 追放十年にして忍難弘通の歩みを進めていた泰雄房日承師は、信真公の跡を継いだ第九代藩主・信順公の入信により赦免され、さらに信順公の発願により玄中寺が建立された。それは八戸法難より十七年を経て、念願の新寺建立が実現した慶事であった。
 その後、同寺は昭和三十六年十一月八日には創立百周年を記念して、総本山第六十六世日達上人の御親修のもと、玄中寺増改築落慶法要ならびに御会式が奉修された。
 さらに平成二年八月八日には、前御法主日顕上人猊下の御親修のもと、創立百三十周年を記念して本堂新築・庫裡増改築落慶法要が奉修され、以来、今日に至るまで、さらなる寺運興隆・講中発展が図られてきた。
 そして、このたびの慶事を迎えるに当たり、本堂内陣の模様替え、本堂障子欄間の新設、廊下の天井をクロス張りから格天井に改築、御宝蔵・庫裡の外壁の塗り替えが行われ、同日の法要を迎えたものである。
 この法要には、沼田凡道青森布教区副宗務支院長をはじめ布教区内外の僧侶が出席。また、塩谷逸平青森地方部長、古川明総代をはじめ信徒多数が参列した。
 法要は、楠牟礼住職の導師により献膳、読経、唱題と如法に奉修された。
 引き続き式の部に移り、近藤英城総代より経過報告、秋田県秋田市の妙華寺住職で、東北大布教区宗務大支院長の戸高提剣師、岩手県盛岡市の感恩寺住職で、岩手布教区宗務支院長の山田容済師、沼田副支院長、古川総代より祝辞が述べられた。
 最後に、楠牟礼住職より参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披瀝された。
 休憩ののち、午後二時より御霊宝虫払会が奉修された。同寺伝来の重宝を捧持し、御宝蔵から行列を組んで本堂に入堂すると、楠牟礼住職の導師のもと、読経、唱題と如法に進められた。
 引き続き、読み上げに従い、御本尊の奉掲が行われたのち、楠牟礼住職より御本尊ならびに重宝の説明がなされた。
 お風入れののち、唱題のなか御本尊が奉収され、再び行列を組んで御宝蔵に向かい、御霊宝虫払会は終了した。
 こののち本堂において記念撮影が行われ、法要の一切は滞りなく終了した。