静 岡 新 聞 社
日興上人の身延離山を語る
『富士・富士宮・沼津・駿東歴史散歩』
下之坊とカナトヅル
 下之坊は、現在「日蓮正宗発祥の霊地」の石柱が立ち、その門前左方には「かなと蔓」の史跡が伝わっている。
 正応二年(一二八九)春のこと、甲州の身延山から日蓮聖人ゆかりの重宝類を運んで来た日興上人は、ひとまず河合(芝川町)の由比家にとどまり、それから上野の南条時光の持仏堂に入った。(後年ここが下之坊になる)
 そして時光の援助をうけて大石寺の建立にとりかかる。翌年一〇月には大坊が完成して、それと共に塔中も次々と建立されていったので、日興上人とその門流は大石が原の寺に移っていった。この時の話として伝わるのが、「かなと蔓」のことである。
 日興上人は身延を離山する時、重宝類をまとめる紐のかわりに、付近に自生する蔓を使って縛り、弟子の百貫坊日仙という怪力の僧がかついで運んだのだという。日仙はこの時上蓮坊を開基しており、現在は百貫坊と称している。
 そしてこの地で紐とかれた蔓は、用水の大堰川のほとりに捨てられた。それがいつの間にか根を生じ、付近の樹木にからんで生育したのであった。
 そうしたイワレは蔓のそばに明治三三年に建てられた日柱上人の石碑が物語っている。昔はこの史跡を左に見ながら西方へまっすぐ川を渡る古道があり、田の中を進むと南条時光の墓所に行けたという。現在はバス停「坂上南条入口」から西へ進入し「宮の前」に近い田の中に廟所を認めることが出来る。高土と呼ばれる土地で、ここから妙蓮寺(南条時光邸)まで参道が続いていたという。また時光の兄七郎太郎の墓は、別の所(下之坊の南面、道路の下方畑中)にある。一八歳で水死したと伝えられそのため七郎次郎時光が、南条家を継いだのであった。
 昔は太郎の墓がある辺りに持仏堂が存在したと伝えているので、真の歴史散歩はこうした周辺にまで及ぼしたいものである。なお、下之坊には時光の孫の日道上人(大石寺四世)と五世日行上人が住んだ事蹟に加え、三世日目上人の遺骨が奉安されて墓所が築かれている(境内右方の基地内)。正宗発祥の地といわれるゆえんである。
平成17年3月29日撮影