平成13年12月1日付
日目上人の廟所
 日興の高弟で、のちに大石寺三世となった日目は文応元(一二六〇)年、父新田重綱、母南条兵衛入道行増の女(時光の姉)の五男として伊豆国田方郡畠郷(現・函南町)で生まれた。十三歳で伊豆の古刹(こさつ)走湯山に上り、塔頭の円蔵坊で修学。文永十一(一二七四)年伊豆巡行の日興に会い、名も蓮蔵坊日目と改めた。
 この年、日興に伴われて身延山に上り、日蓮に師事して随身給仕(身の回りの世話)に努めた。日蓮滅後、生家の新田氏の旧領地であった奥州陸前(現・宮城県)地方へ伝道。日興の身延離山に従い上野の大石寺・北山の本門寺では日興門下の長老として各地へ教化伝道を行い、このころ開山したのが安居山(富士宮市)、甲州谷村(山梨県都留市)蒲原(蒲原町)の三寺で、いずれも東漸寺といい古来(三漸寺)と呼ばれている。
 元弘三・正慶二(一三三三)年、師日興が入滅、大石寺三世となるが、日目は建武の中興を機に公家の奏聞に成功し、師の遺命であった天奏を行うため弟子の日郷(のちに小泉久遠寺を開山)と日尊(重須談所の梨の木伝承の主人公で知られる)を従えて上洛した。
 しかし持病の足痛と寒天に、旅の途中の美濃国垂井宿(岐阜県大垣市)で十一月十五日死去した。七十四歳だった。日目の遺骨は、日郷、日尊により垂井宿で茶毘(だび)にして遺骨を分け、日目に代わって日尊が上洛、日郷は日目の遺骨の半分を抱いて大石寺に帰ったと伝えられる。
 廟所の下之坊は上野の地頭南条時光の下屋敷で身延離山の日興が最初に落ち着いた所とされ、重宝類の荷作りに使ったカナトヅルが根付いたといわれる「かなと蔓伝説」が今に伝えられている。
 境内右方の墓地内にある日目の廟所は、中央に日蓮大聖人、左側に日目の師である大石寺二世日興上人の板碑型五輪塔を配しており、日目上人は右側の五輪塔に納骨したとされる。
 なお、上洛した日尊は遺骨を烏辺山(京都東山)の墓地に納めたあと、そのまま京都にとどまり、のちに上行院(現・要法寺=京都市左京区)を開創、京都の布教伝道に尽くした。(沢田正彦)
平成17年3月29日撮影