平成8年6月15日付
下之坊と「かなと蔓」の碑
 鎌倉時代の正応三(一二九〇)年に大石寺を創建した日興上人が、身延山を離山したのはその三年前の冬のことであった。師日蓮聖人の七回忌を行った前後に、日蓮の有力な弟子である大老僧(日興上人を含む)の日向と日興の間に布教、宗教上の解釈をめぐって対立が生じた。それまで日興を支持してきた身延の地頭波木井実長も日興を疎遠していくような傾向が現れた。
 日興は自分の考えが日蓮の正統な教えであると主張したが、身延山にいることをあきらめ、弟子とともた日蓮の残した遺品や重宝類をもって離山。後に日興を授法の師と仰ぐ上野の地頭南条時光の招きで上野郷に身を寄せた。そのとき日興が最初に落ち着いたのが下之坊だといわれる。ここは南条氏の下屋敷であった。
 南条氏の館(妙蓮寺)から南へ約一キロ離れた下之坊は「かなと蔓(づる)」の霊跡として知られている。かなと蔓とは、日興が身延離山のとき、弟子の百貫坊日仙が重宝類を背負うため用いた蔓性の植物。下之坊で荷をほどいたとき、捨てた蔓のうちの一本が付近を流れる大堰川のほとりで根づいたと言い伝えられている。
 その蔓は樹木にしがみつくように繁茂した。樹下のかたわらに明治三十三(一九〇〇)年、大石寺五十八世日柱上人がその由来を書いた碑が建てられている。碑は高さ約一四〇センチ、幅約八〇センチで漢文で刻字されているが、平成元年二月に舟道坊日岸師が日興上人南条家下屋敷着七百年を記念、読み下しの副碑を建立した。
 その一文に「開山日興上人 嘗(か)って延山を去るの時、蔦蘿(つた)をもって霊宝什器を結束し之を牛馬に駄して此の下之坊に移り、其の結束の蔦蘿を解いて之を地に委ねるに自然に根芽生じたり、蓋し世の諺に枯木に花咲くの謂れ歟、里人皆其の奇を感ずと云う…」。それから六百余年、有志が相談して碑を建てることになったので往古の霊跡を表彰するため由来の概要を記した、と日柱は書いている。
 それにしてもこの伝説は日興の離山が荷造りもありあわせの蔓草で縛らざるを得ない、逃れるような状況だったことがしのばれる。    (沢田正彦)
平成17年3月29日撮影