にち じょう じ | |
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大日蓮より抜粋 | |
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十一月三十日午後一時より、仙台市青葉区の日浄寺(小平法裕住職)において、同寺の開創三百七十周年記念法要が厳粛かつ盛大に奉修された。 同寺は、寛永二十(一六四三)年、総本山第十七世日精上人を開基とし、開基檀那を瀬上丹後守時綱として開創された。 時綱は、仙台藩の家老として伊達政宗公より寺院建立の土地を下賜されたが、幕府から新寺の建立が禁止されていたため、姻戚関係の好学院日行を同市若林区・仏眼寺の第七代住職である達行院日深師に弟子入りさせ、仏眼寺の末寺として同寺を建立された。また、同寺の寺号は時綱の戒名である光瑞院日浄宗慧居士に起因する。 日浄寺三百七十年の歴史のなかで特筆すべきは、仙台法難と要法寺寺籍問題である。 仙台法難は、二百四十九年前の明和二(一七六五)年三月七日、覚林日如師(和合阿闍梨日如贈上人)が同寺信徒の山川平兵衛(総本山第四十二世日厳上人の実父)宅で勤行中に信徒と共に捕らえられ、翌八日に入牢したことから始まり、のちに覚林師は網地島(あじしま)に二十七年間の流罪となった。 また、文化元(一八〇四)年四月には、岩切洞ノロ(現在の同市宮城野区)の日浄寺信徒・加藤了助氏が東光寺五人組より宗旨について尋ねられ、入牢したことから、洞ノロ法難が惹起し、総本山第四十三世日相上人(宮城県多賀城市の御出身)が見舞いのため下向された。 次に、要法寺寺籍問題とは、明治三十三(一九〇〇)年九月二十九日、京都の要法寺が、同寺をはじめ仏眼寺等の寺院は要法寺の末寺であると主張し、寺院の明け渡しを求めて提訴した。 その後、大正五(一九一六)年十一月十七日、同寺第十八代住職の小笠原貫通師の死去により、総本山大石寺から第十九代住職として高橋信道師が赴任したが、要法寺からも住職を派遣し、同時に二名の住職が存在するという事態にまで及んだ。 昭和十八(一九四三)年二月、六十年間の長きにわたった要法寺との寺籍問題はようやく解決し、同寺をはじめ仏眼寺等の寺院は大石寺に帰属した。 また、同寺伽藍(がらん)の変遷は、天明元(一七八一)年十月十三日、出火により焼失したが、同八年、第十一代住職の寿円院日倚上人により再建された。 その後、昭和三十六年十月八日、総本山第六十六世日達上人の大導師のもと、改築落慶法要が奉修され、また同五十五年五月二十三日には前御法主日顕上人猊下大導師のもと、新築落慶入仏法要が盛大に奉修された。 そして、平成十三年十二月十八日、第二十三代住職として小平師が就任し、寺檀和合、寺運興隆に尽力され現在に至っている。 このたびの慶事を迎えるに当たり、東日本大震災で被災した仏具の新調と修繕、本堂内外のクロスの張り替え、本堂・控え室・庫裡の畳替え、本堂等の外壁の塗り替え、境内地の舗装等がなされた。 この法要には、岩切耐道宮城布教区宗務支院長をはじめ布教区内僧侶が出席。また、重光啓助宮城地方部長をはじめ檀信徒が多数、参列した。 法要は、小平住職の導師により献膳、読経、唱題と如法に奉修された。 続いて式の部に移り、今立幹総代より御供養目録が奉呈され、刈田昭二郎総代より経過報告が述べられたあと、岩切支院長、重光地方部長より祝辞が述べられた。 最後に、小平住職より丁重なる謝辞と今後の決意が披瀝された。 小憩ののち、仙台市泉区の妙遍寺住職・椎場承道師により布教講演が行われた。 このあと本堂において記念撮影が行われ、法要の一切は滞りなく終了した。 |
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