日蓮正宗 本山
高永山 本門寺
 
【日仙】
 日仙は甲州西郡小室の人、小笠原家の出身であり、秋山家出身の寂日坊日華と俗縁の関係があった。
 弘長二年に生まれ、幼少の頃は日華に従い、修験道に進んだが、日興上人の教化によって、秋山家、小笠原家の一門がこぞって入信するに及、日華と共に日興上人の門に入った。
 次いで大聖人にも給仕し、百貫房、摂津公とも称され、大聖人の葬列にも加わっている。
 正応三年(1290)10月8日、大石寺建立の秋に、日興上人より給わった御本尊には、
「僧日仙に之を授与す、日仙に百貫房とは聖人の賜はる異名なり、日興上奏の代なり」(富要8−213)
と記されている。
 日仙は正応三年大石寺に塔中上蓮坊(百貫坊)を創し、秋山氏の所縁により日華と共に四国土佐に赴くも、日興上人御遷化を聞いて富士に帰った。
 建武元年(1334)1月7日、伊与公日代との間に、方便品読・不読の問答が起こり、日仙は不読を主張した。
 日仙は同年2月15日、大弐日寿等を伴って讃岐に下り、秋山泰忠の熱誠にこたえて、同年7月7日高瀬に本門寺を創立した。
 延文2年(1357)1月7日、96歳をもって寂した。
                       (日興上人・日目上人 正伝から抜粋)

【讃岐本門寺開基百貫坊日仙上人】
 日仙上人の俗姓は小笠原といいます。
 秋山信綱という源氏の流れを汲む一族の出であります。出家の後、日蓮大聖人並に富士大石寺御開山日興上人の両師に御仕え申し上げて昼夜の別なく休息の隙もないほど御給仕をし、その奉公は比類なしと言われています。
 又、大聖人滅後は興師に給仕すること、大聖に違わず寝所の近くに杖と足駄を置き、起居動静に師孝を尽くす、給仕第一なるが故に褒美として本尊を日仙に授与さる。摂津阿闍梨といい坊号は上蓮坊と言います。
 常に大聖人様の御説法を聴聞したということです。現在、富士大石寺に有る百貫坊は、日仙上人の開基でありますが、その昔建立当時は、上蓮坊と呼ばれておりましたが、百貫坊と言われていたため、その謂名にちなんで百貫坊と称され現在に至ったのであります。
 この日仙上人の百貫坊については、一つの伝説があります。すなわち、日興上人が身延を離山の際、その強力に物をいわせた日仙上人が身延の山中にあった「カズラ」を用いて、本門戒壇の大御本尊様を背負って、富士大石ケ原までお運び申し上げたというものでありますが、しかしこの説は、あくまで伝説の域をでないもののようであります。
 事実は「富要集第五巻」に、或る時聖人鰍沢に行き給ふに折節早川の水出でて越え難し。其の時仙公水に達するが故に、大聖を始め御伴衆皆背負て、越え給ふ時大聖の曰く「此の大水に百貫にて買い得たる馬とも叶ひ難きに、神妙なり」と御感ありき、これより百貫坊と申しけると記述されております。
 このように、日仙上人が非常に強力の持ち主であったことは事実のようであります。
 総本山大石寺の百貫坊は日仙の住坊であり、のち讃岐本門寺を開いたのであります。
                    (【特集】高永山本門寺の紹介から抜粋)