ほん もん じ
本山 本 門 寺
  
大日蓮より抜粋 
 
 開創七百年記念法要
  令和五年十一月八日、香川県三豊市の本山本門寺(梶原日経住職)において、御法主日如上人猊下の大導師のもと、同寺の開創七百年記念法要が、厳粛かつ盛大に奉修された。
 同寺は、当地の地頭・秋山孫次郎泰忠(やすただ)の時、第二祖日興上人の弟子・上蓮坊日仙師によって、元亨三(一三二三)年に開創された宗内屈指の古刹である。
 泰忠出自の秋山氏は、甲斐国(現在の山梨県)を本貫地(ほんがんち=氏族が最初に住み着いた土地)とする源氏の末裔(まつえい)で、国元において日興上人の弟子・寂日坊日華師の教化を受けたと伝えられる。
 弘安年中(一二七八〜一二八八年)に、秋山氏の始祖・阿願入道光季が所領替えにより、讃岐国(現在の香川県域)に移住した。そののち、泰忠が讃岐に赴き、元徳三(一三三一)年十二月五日に高瀬郷の地頭職に就いた。
 しかし、当地にいまだ正法が広まっていないことを歎いた泰忠は、日興上人に僧侶の派遣を希(こいねが)い、直ちに日華師が讃岐に下向したが、病のため、志半ばにして富士へと戻った。
 その後、讃岐には兄弟子・日華師の跡を継いだ日仙師が下向し、所領内にに高瀬大坊が開かれ、本山本門寺の基礎が築かれた。
 以来、歴代住職によって寺域の興隆・発展が図られ、室町時代の中後期(一四四四〜一四八七年)ごろには、塔中十乃至十二力坊を擁(よう)する大寺院となった。
 しかし、江戸時代初期の正保三(一六四六)年に重須本門寺(現在の北山本門寺=静岡県富士宮市北山)の策謀によって本末係争が起こり、寺社奉行への陳情も実らず、慶安元(一六四八)年十二月十一日、重須本門寺末寺として「法華寺」と改称することとなった。
 その後も、不当な本末関係を押し付けられながら、天保四(一八三三)年二月には総本山第四十八世日量上人が、明治七(一八七四)年六月には第五十二世日霑上人が、讃岐を巡錫(じゅんしゃく)された。
 明治三十四年には、第五十六世日應上人が法華寺住職・小笠原日芳師から北山本門寺離末・大石寺復帰の懇願を受け、法華寺が大石寺末寺であることの証明書を与えたが、公的には認められなかった。
 そして昭和二十一年、宗教法人令の発令によって、ようやく法華寺ならびに同末寺十力寺(中之坊・奥之坊・法善坊・泉要坊・西之坊・上之坊・宝光坊・西山坊・妙行寺・福成寺)が日蓮正宗に帰一して、法華寺から再度「本門寺」と改称し、同年七月十一日、讃岐本門寺において、本末十一力寺帰一奉告法要が奉修された。
 これによって、宗門史上最長の約三百年に及ぶ、讃岐法難の終結を見るに至った。
 その後、昭和四十八年九月十四日に第六十六世日達上人、同五十四年八月二十一日には第六十七世日顕上人の晋山(しんざん)を仰ぎ、宗門の本山格寺院・地域広布の法城として、その宗風を靡(なび)かせている。
 そして、平成二十四年三月二十六日に第四十一代住職として梶原慈文師(梶原日経能化)が就任し、さらなる寺檀和合・寺運興隆が図られた。
 そしてこのたび、同寺の開創七百年を記念して、同寺ならびに各塔中檀家をはじめとする法華講員の御供養により、各堂宇(本堂・客殿・開山堂・位牌堂)安置御本尊の御荘厳直しならびに御影(みえい)像のお化粧直しがなされたほか、各御宝前の荘厳、客殿の瓦葺(ふ)き替えおよび内装改修、参道の改修、開創七百年記念碑(ひ)の建立、永代供養塔の新設、境内地の整備等が行われた。さらに『高永山本門寺七百年史』が発刊され、同日の慶事を迎えたものである。
 この法要には、舟橋日謙能化、阿部日明布教部長、漆畑日実海外部長、水島日叡教学部長、新井契道布教部副部長、山崎慈昭大石寺理事、白井照研香川布教区宗務支院長をはじめ布教区内外の僧侶が出席。また、関野洋夫法華講連合会委員長、中津川粋香川地方部長をはじめ布教区内寺院の代表信徒など多数が参列した。
 午前九時から梵鐘(ぼんしょう)が撞(つ)かれ、おごそかな音が高瀬の町に響き渡った。
 九時二十分過ぎ、僧俗一同がお待ちするなか、御法主上人が本門寺に到着された。
 小憩の間もなく、御法主上人は対面所において、梶原住職、僧侶、法華講連合会役員・地方部役員、本門寺総代・講頭・副講頭・分区総代、布教区内の各支部代表、寺族、親族の順に、親しくお目通りを許された。
 九時半、第一号鐘の客殿の喚鐘(かんしょう)が高らかに打ち鳴らされ、同四十五分、第二号鐘の本堂の喚鐘の音が響き渡り、法要の準備が整ったことが告げられた。
 法要は、十時から本堂において開始され、御法主上人の大導師のもと、献膳の儀、読経、唱題と如法に奉修された。
 引き続き式の部に移り、島田美昭総代から経過報告、漆畑海外部長、白井支院長、関野委員長からそれぞれ祝辞が述べられた。
 次に、梶原住職から各業者に対して感謝状が贈呈されたのち、秋元日高庶務部長・佐藤日学大石寺主任理事からの祝電が司会によって披露された。
 最後に、梶原住職から御法主上人および参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披瀝され、式の部は終了した。
 続いて、御法主上人は山門脇に生い茂る大楠(おおぐす)横において、記念碑の除幕ならびに代表者と共に「木斜(もっこく)」のお手植えをなされた。
 小憩ののち、午後一時に御法主上人は客殿に出仕され、『報恩抄』の「例せば国の長(おさ)となる人」(御書一〇〇五n一二行目)から「仏教二度あらわれぬとほめられ給ひしなり」(一〇〇七n六行目)までの御文について、約四十分にわたり甚深の御説法をなされた。
 そののち、御法主上人は大坊前の広布松広場において親しく記念撮影に臨まれ、二時五十分、僧俗一同がお見送りするなか、本門寺をあとにされた。