日蓮正宗 本山
高永山 本門寺
 
【秋山泰忠】
 讃岐秋山家の甲斐よりの移転は、弘安年中の阿願入道の時代であったと思われる。
 秋谷孫次郎泰忠は、その阿願入道の孫に当たり、摂津公日仙、大弐日寿を助けて讃岐本門寺を築き、広大な法城をささえた大外護者であった。
 泰忠は後に入道して「沙弥日高」と称したが、現在、讃岐の秋山家に現存する泰忠の譲状によって、その強盛な信仰と、精忠な後代への配慮の程がしのばれる。
 泰忠は文和2年(1353)3月5日、後々の為に訓誡の条々を定めて、
「一、10月13日の御事はやすただ(泰忠)があと(跡)をちぎょう(知行)せんずるなんし(男子)ねうし(女子)まごひこ(孫彦)にいた(至)るまで(迄)ちゅう(忠)をいた(致)し申すべきなり」(富要8−124)と記し、
「此の高瀬の御堂の外に御堂を建ててはならない、此の御堂に背いてはならない。一族の中にいかなある恨みごとがあっても、13日の大聖人の御命日忌を最第一の行事として、13、14、15の三日間は、何事も恨みを打ち忘れて相勤めよ」
と厳命している。
 また応安5年(1372)3月2日の『日高念誡状』には、
「一、13日のかう(講)又15日かう(講)の人々ひやくしやう(百姓)も御めい(命)をそむ(背)き候はば、みなみな(皆々)大はうぼう(謗法)としてりやうない(領内)のかまい(構)あるまじく候」(富要8−130)と、13日と15日の御報恩の御講に列する百姓衆においても、大坊の命に背く者は大謗法者とみなすと、正信の信仰を貫くべき事を念誡している。
 こうした泰忠の万世を慮っての護法の精神こそが、高瀬大坊の盛名を今日にのこす、基となったのである。
                       (日興上人・日目上人 正伝から抜粋)

【秋山孫次郎源の泰忠】
「孫次郎泰忠入道沙弥日高は、甲斐の中巨摩郡中野にありしとき、父子ともに、日興上人の御本尊を授与せられ、(元享元年)讃岐に下りて(元享3年)父祖の封を受けてより同族出の日仙上人を屈請して、世法では、細川氏(細川定禅)を助けて、殊勲を建てて家運を隆盛にし、仏法では仙師寿師(日仙日寿両上人)を保持して、一族郎党はもとより高瀬一郷をあまねく純信に進ましむるに、百方努力して本門寺大坊の法礎を盤石にした。この上に多数の塔中を有する、広大の法城を築き上げ、大坊の盛名を百代に遺すこと、凡人の企て、およぶ所でないこと、遺状の一々に証するところである」
と、総本山59世日亨上人は著せられています。
 世法秋山孫次郎泰忠として、建武3年(1336)高瀬郷領家職となり、同4年、財田郷の地頭となり、南北朝時代には、北朝に属して細川定禅の幕下となり、その勲功で、高瀬地方の地盤が固まったものであろう。本門寺の全面的大外護者として仏法者として、数々の遺状を残している。
一、孫次郎泰忠 譲り状 文和2年3月5日
 御本仏大聖人を御本仏と仰いで絶対の信仰をささげ、日仙日寿両上人等をも尊敬し、その供養の田畑はすべて、高除き、すなわち免租免税にして、もし子孫の中で争いが起こるような事が有れば、その所領を没収して僧田寺田となせ、という行き届いた訓誡である。
一、日高念誡の状 応安5年3月3日
一、大御坊のために僧衆および一家人への誡の状、応安5年3月8日
 右の両状は、また大坊職の大弐阿闍梨日寿上人を尊信すべきことを念ごろに訓誡して、これに反して、他に師僧を取る一族等あらば日高が子孫にたる資格なければ、総領(本家)たる光高(長男)が計らいをもって、国主に訴え申して、その所管の土地を、御僧すなわち日寿上人に呈上し、長く、大坊の領地と、なすべしとの厳誡である。13日(大聖人への御報恩謝徳)15日(日目上人)両講に列する、下級の百姓までも、大坊の命令に反する者を大謗法者と見なして、高瀬領内の保護をとどむるのであるとの下層の人々にまでおよんだ命令でなくして、実に厳して信仰を植えつけたものである。其の他、多くの古文書が、当時の泰忠の信心を物語ておる。
 一方、武士として、細川氏に仕えた功により、管領細川勝元より安堵状を賜っている。
◎細川勝元安堵状
讃岐国高瀬郷内寺家(定置條々在之)等事秋山泰忠所定置之状如件
文明元年(1469)11月28日
右京大夫(花押)
定置條々
讃岐国 高瀬郷 法華堂
一、軍勢甲乙乱入狼藉事
一、堂中勤行、為堂住日迎計毎日一巻経向後不司有相懈怠事
一、於寺領等者、司任根本檀那日高進状旨事
一、任日高置文旨、閣大坊猥不司取別師匠事
一、常寺供僧識為大坊成敗可補穏便輩事、右條々以御成敗旨 堅所定置也 若有
  違犯族者 司被擯出衆中之状如件 文明元年11月28日本門寺大坊
 こうした時の権力者の外護を受けて、本門寺は隆盛の一途をたどり百年間程の間に、この地方随一の大寺院として、教風は大いにふるったのである。格式は、一段と高く本門寺住職が歩くと他宗の僧侶は、道を開けて通るならわしであったという。
永和4年(1379)3月7日当山大檀那沙弥日高(秋山孫次郎泰忠)卒
                    (【特集】高永山本門寺の紹介から抜粋)