とう こう じ
東 光 寺
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大日蓮より抜粋 
 
 
 十一月二十七日午後二時より、岩手県久慈市の東光寺(松本随道住職)において、同寺の創立百十五周年記念法要が厳粛かつ盛大に奉修された。
 同寺は、明治三十六(一九〇三)年、同県久慈町(現在の久慈市)住人の清水某氏が同町柏崎の地に一宇を建立寄進されたことより始まり、翌三十七年に、同町八日町上野山に場所を移し、青森県八戸市・玄中寺の出張所(通称上野山教会所)となった。
 その後、総本山第五十六世日応上人の弟子となった久慈地方出身の兼田妙寿師(妙寿日清比丘尼)が師僧の命により当地での折伏弘教を進展し、信徒も増加した。
 ところが、兼田師の逝去後五年を経た昭和十年、当地の地主が本宗の信仰に反対し貸地を断ったため、即刻退去となり、やむなく同町十八日町に場所を移した。
 その二年後、地主は破産し、当地を売却したため、信徒がこれを購入し、教会所建設用地として寄進した。
 そして、昭和十五年四月十八日、当時、玄中寺の住職であった佐藤舜道師(本種院日成上人)の御尽力により、東光院教会所として新たに建立され、佐藤師が兼任された。
 その後、昭和十七年十一月二十三日に初代主管として奥法道師が、同十九年五月五日には第二代主管として松本慈眼師が就任し、寺運興隆が図られた。
 昭和二十年四月、町の大半が灰燈(かいじん) に帰すという大規模な林野火災で類焼し、同院も甚大な被害を受けたが、同院信徒の寄進により再建され、同二十四年十月、新築落慶法要が奉修された。
 そして、昭和二十九年ごろより折伏の教線が拡大し、信徒の増加に伴い、同三十六年十一月九日、玄中寺の旧本堂が移築され、総本山第六十六世日達上人の大導師のもと、本堂庫裡増改築落慶法要が厳粛に奉修された。
 その後、昭和三十八年二月五日に、当時、同院の留守居であった宮下忠道師の尽力により寺号公称され、同年十一月一日には、日達上人の御下向を仰ぎ、入仏法要が厳粛かつ盛大に奉修された。
 そして、昭和四十四年三月三十日に初代住職として森盛道師が就任し、翌四十五年三月三日には、法華講東光寺支部が結成され、寺檀和合のもと講中発展が図られた。
 しかしながら、平成四年十一月十九日に第二代住職として就任した者が、翌年一月九日に不法な手続きのもと日蓮正宗から離脱を表明し、同寺に幡据(ばんきょ)したため、同年五月六日、前御法主日顕上人猊下の御慈悲により、東光寺事務所が開設され、渡瀬雄卓師が住職として就任した。
 そして七年十カ月の係争ののち、最高裁判所の判決により、平成十二年十月三十一日に寺院建物等が奪還され、同年十一月八日、第三代住職入院式ならびに奪還奉告法要が奉修された。
 その後、平成十六年七月五日に第四代住職として松本師が就任し、さらなる寺檀和合・寺運興隆が図られた。
 そしてこのたびの慶事に当たり、本堂屋根の全面改修、本堂正面階段手すりの新設ならびに階段コンクリートの全面補修、本堂照明のLED化、本堂玄関引き戸の取り替え、参道の補修、ブロック塀の改修、寺院立て看板・案内看板の新設、本堂周辺の立木の伐採等が行われ、さらに本年度の折伏誓願目標を達成して、同日の法要を迎えたものである。
 この法要には、舟橋日謙能化、関快道大石寺執事、小原玄道岩手布教区宗務支院長をはじめ布教区内外の僧侶が出席。また、佐藤博美岩手地方部長をはじめ信徒多数が参列した。
 法要は、松本住職の導師により献膳、読経、唱題と如法に奉修された。
 引き続き式の部に移り、金井悟総代より御供養目録が奉呈され、これに対して松本住職より受書が授与された。
 そして金井総代より経過報告、小原支院長より祝辞が述べられた。
 最後に、松本住職より参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披瀝された。
 小憩ののち、千葉県野田市の法道寺住職・舟橋義量師により布教講演が行われた。
 このあと本堂において記念撮影が行われ、法要の一切は滞りなく終了した。