ほん  げん  じ
本 玄 寺
  
大日蓮より抜粋 
 
 創立百三十周年記念並びに鐘楼建立落慶法要
  令和六年十二月二十二日午後一時から、岐阜県美濃市の本玄寺(中尾歴道住職・岐阜布教区副宗務支院長)において、同寺の創立百三十周年記念ならびに鐘楼建立落慶法要が厳粛かつ盛大に奉修された。
 同寺は、明治二十七(一八九四)年十月、上有知(こうずち)教会所として建立され、初代担任教師として阿部慈照師(のちの総本山第五十七世日正上人)が就任した。
 その後、同教会所の移転新築・寺号公称が所轄官庁から許可されなかったため、徳島県富田浦町の本玄寺の寺籍が岐阜県美濃市に移され、大正二(一九一三)年六月二十四日、寺号公称がかなった。
 この本玄寺は初め、慶安元(一六四八)年、阿波徳島初代藩主・蜂須賀至鎮(よししげ)公の正室である敬台院殿妙法日詔大姉により、徳島領内に建立された。しかし、明治二十一年より以前に無住となり、同県徳島市の敬台寺の兼務となっていたもので、上有知教会所・第三代担任教師であった小笠原慈明師の時に、寺籍の移転を果たしたものである。
 以来、美濃の地において、歴代住職と信徒により寺院の発展・興隆が図られてきた。
 そして昭和五十五年十一月十一日、第十四代住職として諏訪涼道師(現福岡県久留米市・霑妙寺住職)が就任し、同五十六年七月八日には、総本山第六十七世日顕上人の大導師のもと、新築落慶入仏法要が奉修された。
 また、昭和五十七年九月には御宝蔵が新築されるなど、境内や墓地の整備が行われた。
 その後、平成二十五年十月九日に第十五代住職として中尾師が就任され、さらなる寺檀和合・寺運興隆が図られてきた。
 そしてこのたびの慶事に当たり、記念事業として鐘楼が建立され、同日の法要を迎えたものである。
 この法要には、小林京道岐阜布教区宗務支院長をはじめ布教区内の僧侶が出席。また、同寺総代の増栄来岐阜地方部副地方部長をはじめ同寺の信徒が参列した。
 法要は、中尾住職の導師により献膳、読経、唱題と如法に奉修された。
 引き続き式の部に移り、田口勝弘総代から御供養目録が奉呈され、これに対して中尾住職から受書が授与された。
 次に、増栄総代から経過報告があったのち、小林支院長から祝辞が述べられた。
 最後に、中尾住職から参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披瀝された。
 このあと鐘楼前に移動し、中尾住職によるテープカット、中尾住職・小林支院長をはじめとする出席僧侶・代表信徒によって梵鐘の撞(つ)き初めが行われた。
 引き続き、鐘楼前において代表者による記念写真が撮られた。
 小憩ののち、本堂において、岐阜県美濃加茂市の慧日寺住職・関口雄盟師によって布教講演が行われた。
 最後に、本堂において記念撮影がなされ、法要の一切は滞りなく終了した。