みょう ほう じ
妙 法 寺
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大日蓮より抜粋 
 
 妙法寺第22第住職第200回忌法要
 九月三十日午後一時より、福島県いわき市の妙法寺(梅津正栄住職)において、同寺の第二十二代住職・和合阿闍梨日如贈上人第二百回忌法要が厳粛かつ盛大に奉修された。
 和合阿闍梨日如贈上人は、元文五(一七四〇)年、妙法寺の地元・黒須野に出生され、幼少の折、同じく黒須野出身である総本山第三十一世日因上人の弟子として得度し、その後、総本山第三十四世日真上人の弟子となられた。
 日因上人からは、覚林日如の道号を賜り、のちに日真上人からは和合阿闍梨頂受坊との阿闍梨号・坊号を賜った。
 若き贈上人は、御師範日真上人の御命を受け、細草檀林を中途退林し、奥州仙台弘教に赴かれた。これは、仙台の強信者・賀川権八氏の招請を受け、賀川氏の幼少の子息(のちの総本山第四十三世日相上人)を日真上人の弟子にするため、やがて兄弟子となる贈上人に、出家するまで御法門を伝授してほしいと懇願されたことによるものであった。
 贈上人はこれを引き受ける傍ら、賀川氏の寺院建立の志を共に成し遂げたいと、仙台での布教に専念された。
 その後、天童家家老の中沢三郎左衛門氏等の帰依を受け、八幡村の空き地に庵室を建てると、そこを拠点に昼夜の別なく折伏逆化の日々に明け暮れた。
 やがて賀川氏をはじめとする講中の信心はますます強盛となり、夢に見た寺院建立の機運が高まった。そこで新寺建立禁止の御時世のため、廃寺となっていた登米郡加賀野の本道寺再建の名目で、寺院建立に向けて進み出したのであった。
 しかし、贈上人の折伏弘教に脅威を抱いた他宗派の讒訴(ざんそ)により、明和二 (一七六五)年三月八日、贈上人をはじめ賀川氏、中川氏等が入牢となった。これが 「仙台法難」の始まりである。
 この事態を日真上人は憂慮され、なんとか事態の収拾を期すため、同年七月二日、学頭職にあった遠妙院日穏師(のちの総本山第三十五世日穏上人)が日真上人の代理として日浄寺に逗留しながら奉行所に赴かれ、贈上人が大石寺の僧侶であることを懇切に陳述された。
 さらに、大石寺は六代将軍徳川家宣公夫人・天英院を檀那とする格式ある寺院であることを申し入れ、贈上人等の無罪を主張された。大石寺を知らない役人達は、それを聞いて驚惜(きょうがく)するとともに、うかつな処置はできなくなった。
 また、信徒に対しては異体同心を促し、いよいよ信心を強盛に持つよう、激励された。
 しかし、同月二十六日、日真上人の御遷化により、遠妙院日穏師は事態の決着を見届けることができないまま、帰山の途に就かれた。
 遠妙院日穏師の帰山で安堵した奉行所は、ここぞとばかりに刑の執行を急ぎ、評定(裁判)を立て、贈上人をはじめとする信徒の科(とが)は、民衆を惑わす邪法邪義であるとして、贈上人を綱地島長渡(あじしまふたわたし・現在の宮城県石巻市)へ配流、妙教寺日真師を謹慎、賀川氏を三郡(宮城郡・名取郡・国分郡)から追放、天童家家老の中沢氏は他国への追放など、不当な処分を言い渡した。
 綱地島へ配流となった贈上人は、約二十七年間、同地で生活をされる一方、在住島民への教化に努められると、贈上人の高徳に触れた多くの人々が帰依した。
 そして、明和八(一七七一)年九月二十九日には、仙台洞ノ口に念願の小堂を建立され、さらには配流地の網地島には阿部喜惣右衛門、利喜蔵父子によって旭元堂、要声堂の二堂を建立して、地元信徒の道場とされた。
 赦免後は直ちに総本山へ登山され、のちに妙法寺第二十二代住職に就任し、初発心の師匠・日因上人の第三十三回忌法要を奉修した。しばらくして妙法寺を後住に託され、再び仙台方面の正法弘通に邁進された。
 布教の最中、文化十(一八一三)年十月二十四日、仙台洞ノ口にて遷化され、遺言により柳目・妙教寺に埋葬された。享年七十四歳。法臓(ほうろう)実に六十有余年の生涯を閉じられたのであった。
 昭和三十二年、総本山第六十五世日淳上人より上人号が追諡(ついし)され、今般、妙法寺檀信徒の要望により、贈上人の墓碑が同寺境内に新たに建立される運びとなったものである。
 この法要には、山本法光福島布教区宗務支院長をはじめ布教区内外の僧侶が出席。また、久下和男総代をはじめ信徒多数が参列した。
 法要は、梅津住職の導師により献膳、読経、唱題と如法に奉修され、最後に、梅津住職より参列の各位に対して丁重な謝辞と贈上人の広布への情熱の姿が披瀝された。
 引き続き墓所において、新たに建立された贈上人の墓碑の開眼供養を兼ねた墓参の儀が奉修された。
 こののち本堂において記念撮影が行われ、法要の一切は滞りなく終了した。
 なお、前日の二十九日午後一時からは、昨年の東日本大震災にて損傷した御宝蔵の御本尊御遷座ならびに補修工事着工法要が奉修され、三十日午前十時からは重宝虫払法要が執り行われた。